日本のレンズトラス橋(レンティキュラートラス橋)

日本では1920年代に幾例か(筆者が確認しているところでは3例)架橋されたが、現存するのは北九州市の南河内橋の1例のみである。

南河内橋(北九州市1927年)

八幡製鉄所の貯水池建設(河内貯水池)にともなって架けられた2連のレンズトラス橋で、日本で現存する唯一の例である。
南河内橋は官営八幡製鉄所の沼田尚徳氏が設計、建設指導したもので、氏は工業用水確保のためのプロジェクトとしての河内貯水池の建設全般に関わり、河内ダム、南河内橋を含む河内5橋、河内水路橋9橋を建設するという多才ぶりを発揮している。設計図等の資料が残されているほか、現存する橋自体も2000年8月に新日鐵から北九州市に譲渡されて公的な保護の取り組みがなされている。かつては自動車も通っていたが、現在は自動車は通行止めで、歩道および自転車道として使われている。

竣工・開通年については、橋門の上の橋名板には「大正十五年十一月」(1926年)とあるが、翌昭和2年(1927年)3月の竣工・開通とされている(藤井郁夫『橋梁史年表』海洋架橋調査会、1992年。成瀬輝男編『鉄の橋百選』東京堂出版、1994年、136ページも昭和2年(1927年)の竣工・開通であることを指摘)。このページでも昭和2年(1927年)竣工・開通としておく。
一般に河川や湖沼上に架橋される橋と違い、南河内橋の場合は貯水池に貯水する以前に橋を建設することが可能であり、昭和2年12月の貯水池の完成・貯水に先立って、3月には竣工していた。日本土木学会土木図書館所蔵の絵葉書には、貯水前に足場を組んで建設中の南河内橋の様子を撮影した貴重な写真を見ることができる。

写真:土木図書館所蔵・戦前土木絵葉書データベースより(下は上の写真の一部拡大)
Minami Kawachi Bridge (The only one lenticular truss bridge still remains in Japan. Recorded by Japan Society of Civil Engineering. Photo courtesy, Japan Society of Civil Engineering Library)

往時の写真を見ると柱に○にSの八幡製鉄所のマークが描かれていたことがわかる。そもそも河内貯水池は八幡製鉄所の専用貯水池であり南河内橋もそのプロジェクトの一環として建設された。現在は赤いペンキで塗りつぶされているが、よく観察するとマークの部分だけ浮き上がっているのがわかる。




桐生橋戦前絵はがき
写真:土木図書館所蔵・戦前土木絵葉書データベースより
Old Kiryuu Bridge, Demolished (Photo courtesy, Japan Society of Civil Engineering Library)

桐生橋(群馬県桐生市)

1947年のキャスリーン台風で被害を受けた後、桐生橋の架かっていた新川の暗渠化にともなって撤去された。暗渠になった上は現在のコロンバス通りになっていて、往時の親柱とトラス上部に掲げられていた桐を象ったプレートが残されている。


桐生橋のよすがを求めて、栃木県桐生市に出掛けた。綿密な事前調査はしてなかったので、コロンバス通りと暗渠になった川の跡という記憶を頼りに探すことになったが、たいして時間もかからずに見つけることが出来た。

小さな公園のようになっていて、親柱と桐生橋の象徴である桐のプレートが残されている。
けれども何の知識もなくこれらの「オブジェ」を眺めても、ちんぷんかんぷんである。現地には解説は特になかった。横にある往時の様子を描いた絵だけが、これらが何であるかを説明している(写真と比べるとだいぶん田園風景になっているが)。

2003年1月現地取材


大渡橋戦前絵はがき
写真:土木図書館所蔵・戦前土木絵葉書データベースより
Old Oowatari Bridge, Demolished (Photo courtesy, Japan Society of Civil Engineering Library)

大渡橋(群馬県前橋市1920年)

3径間のトラス橋で、両端の側径間にポニートラスのレンズトラス橋が架けられた。
1935年に流失している。
詩人萩原朔太郎は「郷土望景詩」(『純情小曲集』所収、1925年刊)の中で
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ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干(らんかん)にすがりて歯を噛めども
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋(ひろう)なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。

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と読んでいる。この「欄干にすがりて」の情景にレンズトラス橋を置いてみると、当時の詩人の気持ちが伝わってくるようだ(写真)。
この詩のあとがきにあたる「郷土望景詩の後に」で、朔太郎は「大渡橋は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鉄橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその尽くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり」と解説している。凸レンズ型の造形には直接は触れていないが、新しく完成した鉄橋が長く壮大であればあるほど、故郷の裏寂れた農村情景が強調され、「無限にかなしき橋なり」という印象をこの詩人に与えたのだろう。

桐生橋および大渡橋についてはこれから詳細を調べたいと思う。全国的にも珍しい橋が群馬県の近接する地域に2つの架橋例があったということで、両橋のつながりも興味あるところである。


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