日本の高速道路網建設史

序論

これから日本の高速道路網がどのように作られてきたかについて書こうと思うが、そのためにはまず道路行政について理解しなければならない。

道路行政の基本法は言うまでもなく道路法である。日本の高速道路は、道路法に高速自動車国道として位置付けられ、ただし道路法とは別に高速自動車国道法によって詳細が定められている。道路法、高速自動車国道法の目的は何かと言えば、大雑把に言って、路線を指定し、道路の種類ごとに管理者と管理区分、予算負担を明らかにすることである。ここで重要なのは、行政府が路線を指定することによって、その道路を自らが建設管理すべき道路として行政の対象にすることができるということである。
ある道路が高速自動車国道法によって高速自動車国道として路線指定されることによって、高速道路としてふさわしい道路規格を与えられ(整備計画)、実際に建設、管理、運営されて高速道路となる。

従来の道路網(一般国道など)は、道路法にそれぞれの性格付けがなされ細かく路線の該当条件が定められていて、それに応じて路線の指定を行なう。いわば道路網のあり方は道路法内で完結していたわけで、道路網を作ることでおのずから国土の理想的な編成や効率的な道路交通は実現できるような考え方を取っていた。言い換えると、これが道路法から読みとれる道路行政における道路網と国土編成との関係についての考え方である。
ところが高速道路の場合は、高速自動車国道の路線を指定して道路行政に組み込む以前に、国土開発幹線道路(以前は国土開発縦貫自動車道)の予定路線という形で道路網が所与のものとして与えられている。また、その道路路線の基本的な性格も基本計画として既に与えられている。
戦後高速自動車道路ネットワークの構想が提唱され始められたときから、日本の高速道路網は国土開発(国土復興)の一環として扱われてきた経緯がある。今日でも全国的な道路ネットワークがまず構想され、それに応じて順次道路を作っていくという考え方を取っている。国土計画という達成すべき目標があってその手段として目的を達成するのにふさわしい道路網を建設しようとい考え方であり、そのため、国土計画の目標に応じて道路網整備の優先順位が自ずから決まってくる。これはある意味では国土計画という政策目標を掲げた合理的なやり方のように思えるが、露骨に言えば、国土計画に地元の路線を組み込んでもらうことが政治になり、路線表を組み上げることが行政になるやり方でもある。全体構想ありきだから、往々にして「○○キロメートルの道路網」という数字がひとり歩きする元凶でもある。
高速道路について理解する際には、道路法を元にした道路行政以前の、国土計画や道路ネットワーク構想の理解が欠かせない。むしろこの国土計画や道路ネットワーク構想の部分こそが、道路法の外側に顕在化したもうひとつの道路行政であり、それがどのような手続き(法令)でなされるかを追っていくことが高速道路網の歴史を語るときの主要なテーマになり得る。

もうひとつ、日本の高速道路事情を複雑にしているものがある。
国土計画があり道路網の性格付けが決まっただけでは、道路はできない。道路の延長は際限がなく財源は限られている。実際どこから財源を確保して、どのようなスキーマで建設していくかといった整備手法こそ、政治家の腕の見せ所であり、官僚が知恵と調整力を発揮する所である。
これも最初は、高速道路ネットワークひいてはその背後にある国土計画を実現するための、やり方にすぎなかった。ところが財政の行き詰まりによって、計画実現のために財源を手当てするという考え方から、限られた財源でどうやって計画に近付けていくかというふうに、発想は逆転する。この発想の逆転が当初の高速道路ネットワーク構想を歪め、事情を複雑にしていく。道路特定財源、日本道路公団、高速道路料金プール制といった昨今議論かまびすしいのはこの整備手法の分野である。

日本の高速道路網について以上の道路網整備の3要素を整理してみると次のようになる。

国土計画(復興、開発)の一環としての道路網
道路ネットワーク構想

【根拠法令】国土開発幹線自動車道建設法、全国総合開発計画(閣議決定)

予定路線
基本計画の策定(政令)
道路としての高速道路
  1. 自動車の高速交通の用に供する道路(Motorway, Expressway)
  2. 全国的な自動車交通網の枢要部分を構成し、かつ、政治・経済・文化上特に重要な地域を連絡するものその他国の利害に特に重大な関係を有するもの(National Highway)

【根拠法令】道路法、高速自動車国道法

高速自動車国道としての路線指定
整備計画の策定
道路の整備手法

【根拠法令】道路整備特別措置法、日本道路公団法

有料道路
償還計画(プール制)

高速道路について理解が難しいのは、この3要素が複雑にからみあっているためである。
例えば道路の名称を考えてみると、国土計画の段階である国土開発幹線自動車道建設法に定められた予定路線名、高速自動車国道として道路として性格付けがされるときに付けられる政令の路線名、そして実際完成して日本道路公団が運営する際に付ける通称名と、複数あり、しかもそれぞれの名称の指し示す範囲が必ずしも一致していないことがある。
道路法でいう「一般国道の自動車専用道路」は文字通りの意味だが、道路ネットワーク構想としての「高規格幹線道路網」では国幹道がない地域に作られる高速道路という程度の意味合いで用いられる。「高規格幹線道路網」にはこれとは別に「高速自動車国道に並行する自動車専用道路」というカテゴリーがあるが、これを道路法の次元に還元してやると「一般国道の自動車専用道路」になり、道路整備特別措置法では「一般有料道路」となる。
日本の高速道路網建設史では、こうした各層がどのように考案され、複雑に絡み合いながらひとつの政策手続きとして高速道路網を建設してきたかを時系列的に整理してできるだけわかりやすく紹介してみようと思う。


日本の高速道路網建設史

田中構想から高速自動車国道法まで

日本の高速道路計画は、表立った動きとしては、戦後の国土復興、国土開発の一環としての道路網整備という側面が先行した。

その先鞭をつけたのが、昭和22年に発表された田中清一氏の「総合国土開発田中案要網」である。氏の趣旨要約によると「日本人全部がこの国土で平和な分化の高い生活を営むため、まず食料を自給自足し、同時に各種の眠れる資源を開発する。一方人口と産業の山地高原への分散配置を可能にする。そのために高速道路を建設する」というもので、平地(国土の20%)をできるだけ食糧生産のために必要な農地として、その他の生産機能を山間部や高原などの食糧生産を妨げない場所に移すという構想であった。戦後の食糧難時代を反映した計画であることがわかる。産業の分散配置については戦時中の工場疎開を思い起こさせるが、毛沢東のゲリラ戦術や石原完爾の国土構想など、同時代には多くの類例を見いだすことが出来、氏がどこから着想を得たか特定するにはさらに調査が必要である。
田中構想では、こうした国土復興のために中央縦貫道を構想し、その利点を次のように列挙する。
(イ)農耕地をつぶさず
(ロ)却って農耕地、住宅地、工場敷地を広くする。
(ハ)搬出不能の木材資源三億石以上の産出
(ニ)地下資源、金、銀、銅、石灰石等の発掘
(ホ)国際観光資源の開拓
(ヘ)電源の開発
(ト)高速輸送の便、その他
田中氏は、GHQを通じてこの中央縦貫道構想を公表し、日本政府の関係者にも知られるところとなった。

この田中構想がやがては国土開発縦貫自動車道建設法として法制化され、後々まで日本の高速道路ネットワーク構想に大きな影響を持つことになるのだが、今一度この構想が発案され説得力を持って人々に受け入れられた背景を考えてみたい。
当時経済復興にあたり、エネルギー源を確保するために電源開発が国家的な急務とされ、水力発電のためのダムが山間部に盛んに建設されていた。また軍人や海外に植民していた人々が日本へ引き揚げてきていて、彼らの落ち着き先として高地、高原の開拓が盛んに行なわれていた。つまり、山間部は経済復興のために国内に見いだされた数少ないフロンティアであり、資源の宝庫だったのである。こうした時代の雰囲気を理解しておきたい。

同時期、建設省では東京〜神戸間の高速自動車道(東海道路線)の建設に向けての調査を進めている。これは戦前に着手しながら戦争の激化のために中止になっていた調査を昭和26年(1951年)に再開したもので、東海道路線を採用し、整備手法としては外資を導入しその償還のために有料道路とするということが計画の骨子であった。従来からの国土軸である東海道の交通を補強するもので独自の国土開発の構想を語る必要はなく、道路の技術的可能性や採算性を調べるフィージビリティ調査が中心であった(道路法体系との整合性についてどのように考えられていたのかについては今後の研究課題)。
外資の導入を前提としているためか、当初からアメリカからコンサルタントを招致することが多く、昭和27年(1952年)3月には予備調査をアメリカ人カール・H・フッター(ノースカロライナ州の建設業者ブライスブライザー社副社長)に依頼し、6月に東京〜神戸間高速自動車道建設計画経済調査報告を得ている。昭和29年末にも東京〜神戸間高速道路の経済的採算性のコンサルタントとして、J・C・ウォーマック(カリフォルニア州の道路設計技師)を招致している。
そして、昭和31年(1956年)5月9日はワトキンスが来日し、8月にワトキンスを団長とする名古屋〜神戸間高速自動車道路米国調査団(通称ワトキンス調査団)より調査報告書を得る。これが後に日本の道路政策の出発点とされるワトキンス・レポートであり、「日本の道路は信じがたいほど悪い。世界の工業国でこれほど完全に道路網を無視してきた国は日本のほかにはない」という警句が語り継がれることになる。

昭和32年(1957年)4月16日に国土開発縦貫自動車道建設法が成立する。その国会審議の過程でも触れられているが前述の田中構想を下敷きにして、山間部を縦貫するように高速自動車道を建設しようとするもので、その第1条に「この法律は、国土の普遍的開発をはかり、画期的な産業の立地振興及び国民生活領域の拡大を期するとともに、産業発展の不可欠の基盤たる高速自動車交通網を新たに形成させるため、国土を縦貫する高速幹線自動車道を開設し、及びこれと関連して新都市及び新農村の建設等を促進することを目的とする」と謳っている。

この法案には主務大臣として内閣総理以下、大蔵・農林・通商産業・運輸・建設・自治の各大臣が署名していることからも、単なる高速道路網構想でなく国土開発の一環としての高速道路網であったことが伺える(後に昭和41年に国土開発幹線自動車道建設法に改正される際には、内閣総理・大蔵・運輸・建設大臣が署名しているのみで、この頃には純粋に道路網としての性格を強くする)。

昭和32年の国土開発縦貫自動車道建設法では、以下の6路線7区間の開発縦貫道路について建設すべきとしたが、予定路線については別途法律で定めるとした(中央自動車道のうち小牧市附近から吹田市をのぞく)。特に長大トンネルの建設を前提として技術的財政的に困難が予想されていた中央自動車道の予定路線の決定は、東京〜名古屋間のルートを東海道筋と争って、論争の的であった。

路線名

起点

終点

主たる経過地

中央自動車道

東京都

吹田市

神奈川県津久井郡相模湖町附近 富士吉田市附近 静岡県安倍郡井川村附近 飯田市附近 中津川市附近 小牧市附近 大垣市附近 大津市附近 京都市附近

東北自動車道

東京都

青森市

浦和市附近 館林市附近 宇都宮市附近 福島市附近 仙台市附近 盛岡市附近 秋田県鹿角郡十和田町附近

北海道自動車道

函館市

稚内市

札幌市附近

釧路市

札幌市附近

中国自動車道

吹田市

下関市

兵庫県加東郡滝野町附近 津山市附近 三次市附近 山口市附近

四国自動車道

徳島市

松山市

徳島県三好郡池田町附近 高知市附近

九州自動車道

門司市

鹿児島市

福岡市附近 鳥栖市附近 日田市附近 熊本市附近 小林市附近

昭和32年の国土開発縦貫自動車道建設法は予定路線の決定を後回しにしている中で、小牧〜吹田間についてだけは例外扱いで、同法において予定路線として決定し、次の手続きである基本計画の立案のため必要な基礎調査を指示するなど、実現に向けて一歩踏み込んでいる。
ここで昭和31年ワトキンス・レポートはそれまで建設省が招致したアメリカ人調査団の調査報告とは異なり、対象区間が東京〜神戸間(東海道)ではなく、名古屋〜神戸間であることに注目したい。田中構想に端を発する開発縦貫道と建設省が進めてきた東京〜神戸間の高速自動車道計画との最大公約数がこの区間であり、両案の落としどころとして先行着工が考えられていたことがうかがえる。

新しく作ろうとしている自動車専用の高速道を、従来の法体系上どのように位置付け、どのような性格の道路として扱うかという問題がある。いつの頃からかはわからないが(おそらく建設省が行なった昭和26年(1951年)のフィージビリティ調査に起源を求めることが出来るのであろうが)、(1)自動車専用道路と(2)有料道路とがセットになって高速道路を性格付けるようになっていた。これを従来の法体系に照らし合わせると、運輸省所管の自動車運送法に定める「自動車道」に該当する。ただし同法は道路を使って運送業を営む営利企業を対象としたもので、公道について適用するのはなじまない。
一方で、昭和27年(1952年)6月6日に道路整備特別措置法が制定され、道路法に定める道路について道路管理者が料金を徴収して道路整備を促進するための枠組みができていた。昭和31年(1956年)3月14日には日本道路公団法と新道路整備特別措置法が制定され、全国にまたがって有料道路を建設、管理、運営する組織が整えられていた。つまり、高速道路を道路法の体系に基づく道路として定義することが出来れば、公道でありながら整備促進のために料金を徴収するということは大枠としては可能なのである(ただし新道路整備特別措置法は対象となる道路を一級国道、二級国道、都道府県道又は指定市の市道と個別に指定しているので、同法を改正することが必要)。
こうした自動車専用道路と有料道路という高速道路の性格付けに関する問題について、昭和31年2月に建設大臣と運輸大臣との間で覚書が結ばれ、道路法の体系に基づく公道として、その整備手法としては道路整備特別措置法にもとづいて料金徴収によって整備を促進することが確認された。
これを立法化したのが昭和31年の高速自動車国道法(4月25日成立)で、その要旨は次のとおりである。

  • 道路法上で「高速自動車国道」として定義する

  • 国土開発縦貫自動車道の予定路線のうちから政令でその路線を指定し、政令で指定した路線について整備計画を策定する

  • 国土開発縦貫自動車道の予定路線以外にも、運輸大臣及び建設大臣は、政令で定めるところにより、内閣の議を経て高速自動車国道として建設すべき道路の予定路線を定めることが出来る

高速自動車国道法の成立によって、(1)立法府が国土開発縦貫自動車道の予定路線として定める、(2)その中から行政府が政令によって路線を指定することによって「高速自動車国道」として道路法の体系に位置付けていくとともに、(3)整備計画を定めて実際に整備を進めていく、という手続きができあがったことになる。また政令によって高速自動車国道として建設すべき道路の予定路線を定めることが出来るとした点で、山岳縦貫という国土構想から切り離されて純粋に道路行政として高速道路を作る裁量が与えられた。
もっとも、このことが高速自動車国道は必ずしも国土開発縦貫自動車道(国土開発幹線自動車道)ではないというややこしい状況を作ることにもなる。

同時に道路整備特別措置法も改正され、高速自動車国道も同法の対象道路として料金徴収を認められた。
これで、国土開発の一環としての道路ネットワーク構想、道路の性格付け、整備手法といった高速道路建設のための手続きが全て出揃ったことになる。


東海道・中央論争から国土開発幹線国道法まで

昭和27年の国土開発縦貫自動車道建設法、高速自動車国道法、道路整備特別措置法と相次いだ法律の整備は、日本の高速道路網にとって最初の枠組みを決めたという意味合いもさることながら、具体的には名神高速道路を建設するという実体があってそれにあわせて法制度を整えたというところがある。
実際、名神高速道路の建設が急ピッチで動き出す。高速自動車国道法の制定および道路整備特別措置法が改正されたのが昭和27年の4月25日で、その2ヶ月後の同年6月には高速自動車国道法に基づいて、政府は小牧〜吹田間の国土開発幹線自動車建設線基本計画を告示する。8月には建設省道路局に国道高速課が設置され、9月には日本道路公団が名神高速道路調査のため3調査事務所、1試験所を設置する。そして、同年10月17日には、高速自動車国道中央自動車道の新設に関する整備計画が決定され、建設大臣が日本道路公団に工事施行を命じる。
翌昭和28年10月19日名神高速道路山科工事区の本線上で、日本初の高速道路の起工式が行なわれ、岸日本道路公団総裁が鍬入れを行なう。いよいよ日本最初の高速道路の建設が始まったのである。現在、この記念すべき地には記念碑が建てられているそうであるが、名神高速道路の本線脇なのでじっくりと見ることはできない。

さて国土開発縦貫自動車道建設法には二つの欠点とも言える点があった(というよりは政治的に妥協した点と主張を貫き通した点で、中央道派と東海道派との対立につながっていく点である)。ひとつは、予定路線を別途法律で定めるとしたために、国会の審議が進まなければ高速道路の建設も進まない。もうひとつが山岳部の縦貫路線にこだわったためにそれ以外の路線(沿海部および日本列島を横断するような路線)については対象外であったことである。

この欠点が表面化するのは、まず、東京〜名古屋間のルートをめぐる中央道派と東海道派との対立である。
終戦から10年、経済復興を成し遂げつつある昭和31年(1956年)の経済白書は「もはや戦後ではない」と謳い、既存の国土軸である東海道の交通量も増大していた。東海道新幹線の計画も持ち上がり、昭和33年(1958年)12月には着工の閣議決定までこぎ着けている。東京〜神戸間の高速道路の建設をめぐっても、東海道の沿海ルートの必要性が説かれ、 長大トンネルや構造物の多くなる中央道ルートは技術的財政的な 見地や採算性から問題点が指摘されていた。一方で、この時期、天竜川の佐久間ダムが昭和28年に着工し昭和31年に完成するなど山間地の開発熱は最高潮に達していて、縦貫道の建設を後押しする風潮も決して失われてはいない。当然両者の間で激しい駆け引きが起きる。

[中央自動車道井川ルート(国土開発縦貫自動車道中央自動車道計画図)]

昭和35年7月25日に国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律東海道幹線自動車国道建設法が同時に成立する。一種の取引が成り立ったと考えても良いだろう。
国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律の成立によって、ようやく中央道は予定路線の段階になり、次の政令による路線指定に進むことができる。
対する東海道幹線自動車国道建設法は、東海道ルート派の巻き返しと言っても良く、東海道ルートについては同法で予定線を決定しさらには政令により路線の指定および整備計画の策定を速やかに行なうように求めている。

この両者の競争の顛末を先に書いておくと、1962年5月9日に中央道東京IC〜富士吉田IC間に施行命令が出され、次いで同じ月の30日に東京IC〜静岡ICに施行命令が出される。ほぼ同時着工と言えよう。
中央道と東名高速で先に開通したのは中央道の調布IC〜八王子ICの18.1kmで、1967月12月15日に開通している。1969年3月17日までには河口湖ICまで開通しているが、その先の建設は遅々として進まなかった。1964年に予定路線が富士吉田〜井川〜飯田から富士吉田〜諏訪〜飯田に変更となったためで、いわば振り出しに戻った感がある。結局中央道が東京(高井戸)ICから小牧JCTまで全通するのは1982年11月10日の勝沼IC〜甲府昭和IC間の開通まで待たなければならず、最初の区間の開通から足かけ15年を要している。
一方の東名高速は、1968年4月25日の東京IC〜厚木IC間の開通を皮切りに、1969年5月26日の大井松田IC〜御殿場IC間の開通まで、全通するのに最初の区間の開通からわずか1年しかかかっていない。つまり整備計画が策定されるや否や、全線同時着工したのであった。

[名神高速、中央高速、東名高速の建設進捗年表]

東海道幹線自動車国道建設法の成立は、国土開発縦貫自動車道の国土開発構想の枠外にも高速道路を作り出すもので、同構想の骨抜きにつながっていく。同法成立の翌昭和36年(1961年)11月15日に、国土開発縦貫自動車道建設法の一部が改正され、北陸自動車道が開発縦貫道に加えられる。北陸道の路線は未開発の北陸地域を開発するという趣旨で同法に加えられたものだが、山岳部を縦貫するというよりはむしろ日本海側の沿海部を走るもので、前年に 東海道幹線自動車国道建設法が成立したことに対抗しての路線追加であることが国会での審議段階でほのめかされている。

昭和38年(1963年)7月16日、先に着工していた名神高速栗東IC〜尼崎IC間71.1kmが開通し、日本の高速道路時代が幕開けした。
法制度の面では今度は横断道に関心が向かい、同年7月20日に関越自動車道建設法が成立する。開発縦貫道の枠組みからはずれた個別立法だが、東海道幹線自動車国道建設法と違って予定路線を別の法律で定めるとしている(この点は国土開発縦貫自動車道建設法と同じ)。
以下
昭和39年7月1日東海北陸自動車道建設法
昭和40年5月28日九州横断自動車道建設法
昭和40年6月11日中国横断自動車道建設法
と相次いで成立し、「横断道の個別立法時代」とでもいうべき状況になる。いずれの法律も予定路線は別の法律で定めるとしていてこれらの法律が成立したからと言って即高速道路が建設されるわけではなかったが、名神、東名、中央と相次いで縦貫道が開通し、縦貫道が終わったら横断道の番が来るという先手を打つ意味合いがあった。
この間の昭和39年6月16日には、国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正し、東北、中国、九州、北陸の各予定路線が決定されている。また中央道の路線を変更を富士吉田〜井川〜飯田から富士吉田〜諏訪〜飯田(南アルプスを長大トンネルで貫くルートから、甲府盆地を横断し諏訪を経て伊那谷を南下する現在の中央道のルート)へと変更になっている。

ここへきて、開発縦貫道だけでは全国的な高速道路としてのネットワークを形成するには足りないことが明らかになり、横断道の個別法が「乱立」するようになってそれらを整理する必要も出て来て、法体系の抜本的な修正が迫られた。
それが、昭和41年(1966年)7月1日の国土開発幹線自動車道建設法(国土開発縦貫自動車道建設法の一部を改正)であった。同法はまず第1条の法の目的の文中「縦貫する」を「縦貫し、又は横断する」に改めて、横断道も含む包括的な高速道路網を整備することを打ち出している。名称も「国土開発縦貫自動車道」から「国土開発幹線自動車道」に改めている。
また、個別法を廃止するとともに、別表に記載の路線を予定路線として法定している。これによって、立法府が関与すべき(できる)予定路線の決定作業は一挙に終了してしまい、以降、行政府の路線指定と整備計画策定作業が高速道路建設の関心事となっていく。

7600kmの国土開発幹線自動車道網

路線名

起点

終点

主たる経過地

北海道縦貫自動車道

函館市

稚内市

室蘭市附近 札幌市附近 岩見沢市附近 旭川市附近

北海道横断自動車道

釧路線

小樽市

釧路市

札幌市附近 夕張市附近 帯広市附近 北海道足寄郡足寄町附近

北見線

北見市

東北縦貫自動車道

青森線

東京都

青森市

浦和市附近 館林市 宇都宮市 福島市 仙台市 盛岡市

秋田県鹿角郡十和田町

八戸線

八戸市

 

東北横断自動車道

秋田線

北上市

秋田市

横手市附近

酒田線

仙台市

酒田市

山形市附近 鶴岡市附近

平新潟線

平市

新潟市

会津若松市附近

関越自動車道

新潟線

東京都

新潟市

川越市附近 本庄市附近

前橋市附近

直江津線

直江津市

高崎市附近 長野市附近

常磐自動車道

東京都

平市

柏市附近 土浦市附近 水戸市附近

東関東自動車道

木更津線

東京都

木更津市

習志野市附近

千葉市附近

鹿島線

茨城県鹿島郡鹿島町

 

中央自動車道

富士吉田線

東京都

富士吉田市

神奈川県津久井郡相模湖町 大月市

西宮線

西宮市

神奈川県津久井郡相模湖町 大月市 甲府市 諏訪市 

飯田市 中津川市 小牧市 大垣市 大津市 京都市 吹田市

長野線

長野市

松本市附近

東海自動車道

東京都

小牧市

横浜市 静岡市 浜松市 豊橋市 名古屋市

北陸自動車道

新潟市

滋賀県坂田郡米原町

直江津市附近 富山市 金沢市 福井市 敦賀市

東海北陸自動車道

一宮市

砺波市

関市附近 岐阜県大野郡荘川村附近

近畿自動車道

伊勢線

名古屋市

伊勢市

四日市市附近

津市附近

名古屋大阪線

名古屋市

吹田市

天理市附近 大阪市附近

和歌山線

松原市

海南市

和歌山市付近

舞鶴線

吹田市

舞鶴市

三田市附近 福知山市附近

中国縦貫自動車道

吹田市

下関市

兵庫県加東郡滝野町 津山市 三次市 島根県 鹿足郡六日市町附近 山口市

山陽自動車道

吹田市

山口市

神戸市附近 姫路市附近 岡山市附近 広島市附近 岩国市附近

中国横断自動車道

岡山米子線

岡山市

境港市

岡山県真庭郡落合町附近 米子市附近

広島浜田線

広島市

浜田市

 

四国縦貫自動車道

徳島市

大洲市

徳島県三好郡池田町附近 松山市附近

四国横断自動車道

高松市

須崎市

伊予三島市附近 高知市附近

九州縦貫自動車道

鹿児島線

北九州市

鹿児島市

福岡市 島栖市 熊本市 小林市附近

宮崎線

宮崎市

九州横断自動車道

長崎市

大分市

佐賀市附近 島栖市・久留米市附近 日田市附近


プール制から高規格幹線道路網の成立、今日まで

これまでは
開発縦貫道(国土開発幹線道)=ネットワーク構想=予定路線
高速自動車国道=道路としての性格付け=路線指定・整備計画
道路整備特別措置法・有料道路
という3つの政策手続きを押さえれば比較的容易に高速道路の整備構想について理解できた。

ところがこれ以降は、財源がない、儲からない、でも全て予定路線は決定されてしまったからそれを次々に路線指定して整備計画作って建設していかなければならないという、整備手法の矛盾が表面化してくる。
解決のために、プール制の採用や、高規格幹線道路網という新たな道路ネットワーク構想を作って、そこに一般有料道路や一般国道の自動車専用道路を組み込んで実質的な高速道路網を作るという方法が採られる。高規格幹線道路網は、国幹道のように直接法律で定められている道路ネットワーク構想ではなく、全国総合開発計画や道路整備5ヶ年計画、道路審議会だの、なんとか委員会の答申だの、果ては次官通達まで入り乱れてひっちゃかめっちゃか。「一般国道自動車専用道路」だの「高速自動車国道に並行する自動車専用道路」だの、お前どこの法令から出て来たんだい?というややこしい用語も登場。○○キロの高速道路網を作るという数字だけが一人歩きしている感もなきにしもあらず。
おまけに民営化の議論ですかい?!

これまとめるの、もう少し時間かかりそうです。

(現在執筆中です)


このページの執筆にあたっては、革洋同さんのページおよび彼とのやり取りが大変参考になりました。感謝して記します。


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