日本国道路元標 | ||||||||||
日本国道路元標
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日本国道路元標にもの申す | ||||||||||
営団地下鉄三越前駅のB5出口の周辺案内には「日本国道路元標」が載っている。ちょっとした観光名所扱いである。ところが、よく見ると地図で示されている場所は日本橋のたもとの「元標の広場」である。 B5出口を出ると‥‥ 日本橋の北詰にある「元標の広場」には、移設された東京市道路元標と、日本国道路元標の複製がある。本物は日本橋の中央にある。 2003年3月「元標の広場」が改修された。設置してある日本国道路元標の複製も台座が斜めにカットされ、柵も内側に引っ込められて、見やすくなった。 |
設置の根拠が見あたらない日本国道路元標と言えば、いかにも日本の道路の起点という趣で、いざ東京日本橋に立てば「すべての道は日本国道路元標に通ず」という気分にもなる。五街道の起点「お江戸日本橋」のお株を引き継いで、まさに橋のど真ん中に位置しているのも、小憎い。その存在は、道路元標、国道の愛好家はもとより、日本橋の紹介には事欠かせない存在としてマスコミにも取り上げられ、一般の人にもよく知られている。 さぞ重要な役割が決められているのだろうと思ってしまうが、この日本国道路元標、その設置の根拠法令が見あたらないのである。
道路元標は市町村毎に設置されていることがわかる。つまり市町村それぞれにおける道路の基点なのであって、日本国全体を代表させるような「日本国道路元標」はもとより、道府県の元標についての定めがない。そしてもっと重要なことに、
今日「日本国道路元標」が鎮座している日本橋の中央は、本来は東京市の道路元標の位置なのである。 戦前の中央集権的な行政組織を考えると「日本国」を代表する道路元標があっても良い気がするが、実際には「東京市」が特別な意味合いを持つことで、目的は達せられていた。大正9年4月1日に旧道路法にもとづいて認定された国道の一覧(大正9年内務省告示第二十八号)には38本の国道が記載されているが、どの国道も皆、起点は「東京市」になっている。すなわち「すべての道は東京市道路元標に通じていた」のである。 [東京市道路元標]について | |||||||||
現在の日本橋の様子。上に首都高速の高架橋が覆い被さって窮屈そうである。 道路の中央に安全地帯を示すペイントに守られるようにある日本国道路元標。日本橋の表面は石畳になっている。 |
日本国道路元標の由来今日では、市電の電柱の形をした東京市道路元標は日本橋北詰の元標の広場に移設され、替わりに日本国道路元標が日本橋のど真ん中に位置している。一体、いつ、だれが、置き換えたのであろうか?そして日本国道路元標はどこから来たのであろうか?
先に見たように道路元標については大正9年施行の旧道路法とその関連法の道路法施行令がその根拠法になっていた。ところがこの大正道路法は、昭和27年に現行の新道路法が施行されるのと入れ替えに廃止されてしまう。
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よく勘違いされることだが、首都高速道路の高架橋が日本橋の上空に架かったのは昭和37年から38年にかけてのことであり(開通は昭和39年8月2日)、首都高速道路の建設と東京市道路元標の撤去・日本国道路元標の設置とは直接的な関係はないと考えられる。昭和37年の首都高速道路建設中の写真には高架橋工事が進んでいる中でも依然として立っている東京市道路元標が写っている(首都高速道路公団写真、『旅』2003年6月号84ページ掲載)。
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東京市道路元標は、日本橋という特異な位置にあることと、市電の柱の形を取っていたことから、道路行政上は機能を失ったものの、戦後もそのままの状態で残ったものと思われる。
参考
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日本国道路元標を北側から撮影した。道路元標の手前側が国道4号(6号、14号、17号重複)、向こう側が国道1号(15号、20号重複)になる。 |
日本国道路元標と国道の起点現在日本国道路元標を起点にしている国道は7本あり、次のとおりである。
日本国道路元標は東京都の道路の基点として今日でも利用されていて、道路の案内標識で「東京○○km」という時の「東京」とは日本橋の日本国道路元標を起点にして計測している。他の道府県ではそれぞれの県庁前までを基準としていて、東京だけが特別な扱いになっている。 | |||||||||
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2003年6月1日首都高速道路高架橋建設と東京市道路元標の撤去・日本国道路元標の時期について補遺
2003年4月19日元標の広場が改修されたことを追加 2003年1月画像を中心に大幅更新 2001年8月新規作成 |