対馬藩お船江

厳原は、対馬の主邑にして、対馬藩の城下町であり、今日の対馬の政治、経済、交易の中心地である。
特に出入国管理や税関などが整い国際航路専用ターミナルと埠頭が2000年に完成して以来、それまでは不定期に運行され、一時は島の北端の比田勝港にも出入りしていた釜山との航路も、定期航路として厳原港に就航している。本土・博多港とのフェリー、高速船、貨物船も、多くが厳原に出入りしている。厳原の港湾としての役割は、昔からの伝統を持ちながら、今日さらに発展しようとしている。
厳原町の久田地区には、江戸時代対馬藩の御用船専用の港であった「お船江」の遺構がある。
地理を説明しておくと、湾はYの字状に奥が二股に分かれていて、主邑であり御城下でもある厳原の町は北側の入り江に面し、現在の厳原港もこちら側にある。「お船江」は、これとは反対側の南の入り江に位置している。藩の管理を考えると、城下にできるだけ近い方が便利なようにも思えるが、北側は商人や漁民が利用する港であり、南側は藩の御用として庶民の立ち入りを禁止していたのかもしれない。
久田までは厳原から歩けないでもない距離だが、指呼のあたる岬を回っていくので、長く感じられる。豆酘方面へ向かうバスが通っているので、時間を調べて利用するのも良い。


対馬藩お船江水路
おだやかな入り江の奥からさらに水路が船溜まりへと通じている(写真)。開削したのであろうか。あるいはそうではなくても、石垣で水路を護岸し、かなり大仕掛けな港湾設備であることがわかる。入り江の奥に岸壁を築くだけでは済まされない、船を格納するかのような厳重さがある。単に御用船が出入りしていただけでなく、藩の軍港としても機能していたのかもしれない。
江戸時代には、物々しい警備の中を、朝鮮通信使を乗せた船や、参勤交代の際の藩主の船、もしかしたら幕府御公儀には隠密の藩の交易船もが、ここを出入りしたであろう。そういう想像を膨らますのは楽しい。


対馬藩お船江船着き場
現存する船着き場は寛文3年(1663年)に築かれた。三本の埠頭が突き出していて、かなりの規模だったことが伺える。
写真にある埠頭の石積みの築堤がほぼ完璧に残されているほか、正門、倉庫、休憩所の建物の遺構も見つかっている。
江戸時代には沿海各藩はこうした港湾設備を持っていたが、遺構が残されている例は数少ない。こうした歴史的な意義から対馬藩お船江は長崎県指定文化財に指定されている。


厳原港国際ターミナル
厳原港国際ターミナルと釜山行きの高速艇「シーフラワー」
釜山のとの間に航路が開かれ、今日も国際交流の最前線である。

※2004年3月1日に合併し対馬全島一市の対馬市となったが、ここでは訪問時の厳原町の表記をそのまま残しておく。

[戻る]

TTS