大正8年に制定され、翌大正9年4月1日から施行された道路に関する基本法で、戦後の昭和27年に現行の道路法が施行されるまで効力を有した。旧道路法または大正道路法と呼んでいる。
(旧)道路法は大正時代の国道網(道路仲間の間では大正国道と呼んでいる)を次のように規定している。
第十条 国道の路線は、左の路線に就き、主務大臣、之を認定す。 | |
一 | 東京市より神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地又は枢要の開港に達する路線 |
二 | 主として軍事の目的を有する路線 |
滋賀県米原町醒ヶ井に残る、大正時代の国道14号の石碑
醒ヶ井は中山道の宿場町で、往古から関ヶ原を越えて関西と東国とを結ぶ超一級の交通路がこの地を通ってきた。明治以降もそれまでの旧中山道を引き継ぐ形で街道が通っていたが、大正9年に道路法が施行され新しい国道網が出来上がると、国道14号に改められた。
この国道14号は東京から京都まで旧中山道を忠実になぞっているのだが、かなりの部分が他の国道と重複していて、(1)長野県の佐久で北国街道から別れて、和田峠、下諏訪を経て、岐阜県の加納までの木曽路の区間と、(2)関ヶ原で北陸(石川県庁)へ向かう国道12号(今日のR358が関ヶ原から長浜に抜けている区間に相当)と分岐した後、滋賀県草津でかつての東海道である国道2号に合流するまでの区間が、国道14号の実体であった。醒ヶ井は(2)の国道14号の単独区間に位置していたために、こうした石碑が作られたものと思われる。
ところが、昭和9年の国道路線の改訂で、下諏訪から木曽路を経て、関ヶ原を越えて、草津に至る国道14号の主だった区間が国道8号に編入されてしまい、単独で残っている区間は長野県の和田峠越えの区間にだけになってしまった(旧道路法では国道は東京市と他の地点を結ぶように定められているので、重複していても路線としては依然東京と京都とを結んでいる)。醒ヶ井の国道14号は国道8号に重複する下位の国道として、存在することはするが、実体はもはやなくなってしまった。
思えばこの時に、上位の国道8号の石碑に取り替えられなかったのかという疑問が思い浮かぶが、地元では国道14号が定着していたのか、それとも石碑の存在自体が忘れられていたか、いずれにしても国道14号碑は残り、国道8号碑は見あたらない。
そして戦後の昭和27年に新道路法が制定されその下で新しい国道の体系ができあがると、関ヶ原を越える区間は国道21号となり、この時点で、醒ヶ井の国道14号碑は完全に歴史的存在になってしまった。
醒ヶ井は水の町で、集落の至る所から水が湧き出ている。日本武尊が伊吹山の妖怪の毒気に当てられたときに、清水を飲んで我に戻ったことから、「醒める井戸」ということで醒ヶ井の名が付いたという由来が伝えられている程である。家々の間に水路がめぐらされていて、清水が生活に溶け込んでいる。
国道14号の石碑が立っているのは、そんな醒ヶ井の集落の中心部、十王水と呼ばれる湧き水の前である。
現在の国道21号は集落を外れて走っていて、集落内には往時の街道宿場町の雰囲気が残されている。散策していて愉しい。
ただ惜しむらくは、歴史を伝えている国道14号碑の保存状態がよくないことである。写真を見て貰うとわかるように、町並みの整備として橋を新しくして十王水の案内も立てられているのだが、国道14号碑は植え込みに隠れてしまって一見してわからない。醒ヶ井が宿場町として整備されたのは江戸時代の中山道の頃であろうが、その後いきなり現代の宿場町整備に飛ぶのではなくて、明治、大正、昭和という近代化の過程にあっても醒ヶ井が主要な街道沿いの町として存続してきた継続性を大切にして欲しいと思う(ヴォーリズによって設計され昭和9年に建てられた旧醒ヶ井郵便局のモダンな建物は、補修がなされて大切に保存されているのだが)。
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