峠の風景老ノ坂峠(京都府) | |
鬱蒼と木が生い茂ってる首塚大明神 | 山陰道の老ノ坂峠は、京都洛内(山城国)と丹波国とを隔てる峠である。人々の往来という観点から言えば京都の西の玄関口であり、軍事的に言えば最終防衛線である。そうした老ノ坂の地理にふさわしく、この峠には二つの物語が伝わっている。 ひとつは、源頼光の大江山の酒呑童子退治にまつわる伝説である。源頼光と四天王が大江山の酒呑童子を成敗し、その首級を持って京に帰ろうとしたところ、老ノ坂に差し掛かったところで急に首が重くなり動かなくなってしまった。四天王のひとりで大力持ちの坂田金時(足柄山の金太郎)をもってしても動かすことができず、やむをなくその地に塚を作り埋めてきた。それが現在も峠に鎮座している首塚大明神の由来であるという。別の伝承には、老ノ坂を越えて京の領域に入ろうとしたところ、峠の子安地蔵が「不浄な首を聖なる京に入れてはならん」と戒めたことによって、首はその場で動かすことが出来なくなった、と伝えられている。いずれにしても老ノ坂が洛内と外との境界になっていて、その境目に首塚が築かれたことを物語っている。 一方、丹後地方の大江町に伝わる伝承では、源頼光に刎ねられた酒呑童子の首は京の方向に向かって飛び去り、落ちたところが老ノ坂であるという。この話では帰路の途中、源頼光一行がこの首を拾い上げ、京中で晒した後で、最初に落ちた場所である老ノ坂に塚を作って埋めたことになっている。
近年の研究では、酒呑童子の住んでいた大江山というのは老ノ坂の麓の大枝のことを指し、老ノ坂という地名自体が大枝の坂が訛ったものだという解釈も出されている。
もうひとつ、老ノ坂の名前が物語に登場するのは、天正10年(1852年)明智光秀が織田信長を京都本能寺に滅ぼしたときに軍勢を率いてこの峠を越えた、その劇的な情景のためにである。主君信長を討ち変わって自分が天下を取る。毛利を攻めている豊臣秀吉に加勢するために備中へ向かうように命じられて居城丹波亀山城(現在は亀岡)に戻った光秀は、そのまま西へは向かわず、逆に老ノ坂を越えて京に攻め入る決心をした。「敵は正に本能寺に在り」。謀反は失敗すれば謀反に終わるが、成功すればその罪を問われることはない。信長は今や敵なのである。
江戸時代の歴史家頼山陽は『本能寺』という七言律詩を詠んでいる。漢詩は定型が決まっているのを楽しむものであるが、ここでは乱暴だが老ノ坂の場面だけを抜き出してみる。それでも峠を駆け下りた軍馬の轟きを想像することができるだろう。
老阪西去備中道(老ノ阪西に去れば備中の道)
一説によれば京都へ上る理由を「主君信長公に馬揃えを御覧いただくため」と配下の将兵に説明したそうであるが、それよりは「敵は正に本能寺に在り」の台詞が峠道にはふさわしい。 明智光秀のその後を知る後世の歴史家として頼山陽は、『本能寺』の七言律詩を次のように結んでいる。 敵在備中汝能備(敵は備中に在り汝能く備えよ) 老ノ坂の馬上にある光秀は、もちろん自らの運命をそこまでは予測し得ていない。ただ少なくとも、「従是東山城国」の道標を通り過ぎたとき、引き返すことのできないところまでやって来た我が身を思ったことだろう。 |
頼山陽『本能寺』
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