欧米列強による植民地の獲得は、単に誰のものでもない土地を自分のものにする純粋な意味での植民(フロンティア(辺境開拓)の拡大)ではなく、限りある地球上の土地をどう分割するか(バウンダリー(境界線)の確定)という争いであった。探検家が「未知の」土地を発見すると、次に商人と軍隊と測量隊が送り込まれた。経済的軍事的にその土地を支配し、一度支配した土地を他者に取られないように(あるいはこれから支配するべき土地を確定するために)測量をして境界を画定した。
そうした列強諸国の分割合戦から身を守るためには、富国強兵政策で経済力・軍事力を増して力で対抗すると同時に、近代的な測量の手法を確立し自らの領土の範囲を明確に主張することが必要だった。明治という時代、日本が生き残るための命題がここにあった。
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文中で言う「外国人」とは、当時の日本国政府が日米修好通商条約を結んでいたアメリカおよび同等の条約を結び「遊歩規程」が適用されていた各国国籍人を指す。
安政5年に結ばれた日米修好通商条約にもとづいて、江戸幕府(後に明治政府)は横浜に外国人居留地が設けて、外国人の居住を制限した。この条約には、他に「外国人遊歩規程ハ横浜ノ周囲10里ヲ以テ限リトセリ故ニ相模酒匂川ヲシテ限トス」を設け、居留地に住む外国人が日本国政府の許可なく旅行できる範囲を居留地から10里以内に制限した(内国旅行の制限)。この外国人が自由に旅行できる範囲は、西は酒匂川までとされていたが、この規定の本当の狙いは東の江戸(東京)に外国人を入らせないことにあったことは言うまでもない。
ところが、駐在外交官らが「箱根までは10里に含まれる」と申し立て、この規定をなし崩しにしようとした。純粋に高原避暑地(Hill
Station)として知られるようになっていた箱根に行きたかったためと言われるが、箱根が10里に含まれるのであれば、首都である江戸(東京)へも外国人の自由旅行を認めなくてはならなくなる。これは当時の政府には容認できざる事態であった。
そこで明治政府は、明治9年から翌年にかけて横浜の居留地を基点に近代的な三角測量を用いて距離を計測し、果たして、酒匂川べりの従来ここが「10里」の限度とされていた地点が実際には11里21町12間だということを示し、箱根は遠に及ばないことを証明した。
その際に測量の基点として用いられた測点のひとつが、この十二号測点である。
すなわち、近代日本の初期、欧米列強と地理的範囲をめぐって起きた衝突の舞台となった場所である。
地理寮測点第壱号
茨城県つくば市の国土地理院・地図と測量の科学館に、地理寮測点第壱号が展示されている。
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2003年5月国土地理院に保管されている測点を取材、追加
2001年8月新規作成
2001年7月取材
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