想像していたより小さなお社(やしろ)だった。
境内にたどり着く前は、村おこしの観光施設や整地されてしまった史跡公園に少し興をそがれたのだが、その奥まった杜のなかにひっそりとたたずむ神社までは人はなかなかやって来ない。静かで、いにしえに想を馳せることのできる空間が、まだ守られていた。 黄金山神社は、奈良時代の産金遺跡として知られている黄金迫に鎮座している。聖武天皇発願による廬舎那仏建立の際、天平21年(749年)に陸奥国守百済王敬福がこの地での産金を朝廷に届け出たのが、この産金遺跡の由来である。 大仏建立は、国分寺・国分尼寺建立と並んで、仏教による国家統合をめざす当時の朝廷にとって、国を挙げての一大プロジェクトであった。ところが、建造作業は行き詰まりを見せた。それは、当時の日本では金は産出しないと思われていて、大仏像の表面の塗金に必要な金が確保できていなかったのである。その金が陸奥の国から届けられて、ようやく大仏像完成に目処が付いた。朝廷にとってはまさに慶事であった。産金を慶び、元号が天平から天平感宝に改められている。功績のあった敬福は従五位上から従三位に列せられ、また陸奥国は租税が3ヶ年免除された。 「陸奥国より金を出せる詔書」が発せられ、朝廷に仕える高官達もそれに呼応して祝いの詞を奏上した。そうした当時の朝廷の雰囲気は、万葉集に残されている大伴家持の歌(長歌および反歌)からも伝わってくる。 陸奥国より金を出せる詔書を賀ぐ歌
(前略) 我が大王の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて 金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金ありと 奏(まう)し賜へれ (後略) 「我らが大君(天皇)が、万人を(仏道に)お導きなさろうと、善きこと(大仏建立)を始めなさった(が、完成させるために必要な金が産出しなかった)。あとは金があればうまくいくと思われて悩んでおられたところに、東の国の陸奥の小田という山に金があったと奏上があった」 反歌 すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く 「天皇の御代が栄えるようにと、東の陸奥の山で金の花咲く」 天平感宝元年5月12日越中国守の館にて そのままの意味しかなく、おもしろくもない歌だが、むしろ天皇中心の律令体制が整い、事あるごとに天皇賛美が行なわれていた朝廷の様子が伺える。大伴家持が詠んだこの歌も、奏上歌として朝廷に伝えられたことだろう。大伴一族を率いる家持の気概が表現されている歌でもある。 この歌は万葉集に収録されているが、当時朝廷にとって辺境だった東北地方を詠んだ歌は少なく、この歌に詠み込まれている「陸奥の小田なる山」すなわち遠田郡(かつては小田郡)涌谷町のこの産金地が、万葉集の最北端と言われている。 黄金山神社は、出金に縁起を持つ神社として、延喜式にも延喜式内社としてその名が見える。黄金迫産金遺跡のいわば記念碑的存在として、今日まで歴史を伝えている。 黄金山神社の境内には、大槻文彦による明治41年建立の「日本黄金始出地碑」が立てられている。産金地としてのあらましを記したもので、「天皇大喜改元」「大伴家持賀陸奥国出金」という記述が見られる。万葉集や続日本紀などの記事を元にしたもので、新しい発見はないが、現地に立ったときに漢文を訓下しながら歴史を振り返るのもまた愉しいものである。
「新しい発見はない」と書いたのは今日の知識で言うと間違いではないが、かといって単なる引用にとどまるものではなく、学説史をたどるとこの石碑も重みを増してくる。
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