時代の移り変わりにともない街道筋も変遷し、関東とみちのくとの境界には、古代からの「白河の関」とされている旗宿の古関蹟のほかに、古来の国界の祭祀形態を残している「境の明神」が、旧跡として伝えられている。前者は白河市の山の中にあるのに対して、後者はかつての奥州街道だった国道294号沿いにあり今なお栃木県と福島県の県境をなしている。まず、「境の明神」を訪れてみる。 [白河の関(旗宿古関蹟)へ] 境の明神1998年3月の冬の気配が戻って来たある日、かつてのみちのく行きの旅情を味わってみようと、栃木と福島の県境を歩いて越えたことがあった。東北本線を豊原駅で降り一山越えて、奥州街道にたどり着いた。かつての奥州街道は、現在は国道294号に指定されている。いちおうは国全体の道路体系に位置付けられているが、並行している国道4号に街道としての地位を譲り、田舎の1本道風情である。途中に、一里塚が残されていたりして、奥州街道をしのぶことができる。
国道に沿って小一時間も歩くと、次第に谷合いが狭くなり道もゆるやかに登っていく。それまでの2車線の道路が、そこだけ1車線に狭められている。切り通しの道に木々の枝が覆い被さり、昼でも薄暗くなっている。福島県白河市の看板が立っていて、栃木・福島の県境であることを示している。そして、ここがみちのくへの入り口である。わずかながらも峠になっていて、県境の線を頂上にして、道は北へ向かって下って行っている。地形が峠になっていることに満足を覚えた。 現在の緩やかな峠道は、明治9年に掘り下げて勾配を緩和したもので、それ以前はまさに関東とみちのくとを隔てる峠だったであろう。切り通しの上に国境碑が残っている(デジタルカメラで撮影したが、照度不足でうまく写せなかった)。 下野(栃木県)側は玉津島神社、奥羽(福島県)側は住吉神社である。これは下野側から見た場合で、国境の内側に女神を外側に男神を祭ることになっていて、玉津島神社には衣通姫命(そとおりひめのみこと)を、住吉神社には住吉三神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと))を祭っている。 奥羽側から見ると男神と女神との位置関係は当然逆になるが、その場合は、同じ社に違う祭神を見立てて祭祀を行なったのであろうか。 (写真上:玉津島神社(栃木県那須町)、下:境明神(福島県白河市)) 玉津島神社については、創立は天喜元年(1053年)に紀州和歌浦の玉津島神社の分霊を勧請したのが始まりと伝えられている。男女神一対を国界に祭る素朴な祭祀形態(道祖神も男女一対に祭られていることとも関連があるだろう)から、男神、女神をそれぞれ記紀神話に出てくる神に当てはめて祭るようになったのが、この頃なのだろう。とすると、境の明神前を通っているこの往来の歴史は、さらに遡ることができる。現地に立って、こういう推論をめぐらすのは愉しい。
明治の廃仏毀釈前までは、栃木県側の玉津島神社には別当寺があった。その名残であろうか、境内の枯れ草の中に仏を一体見つけることが出来た。この仏も、街道を行き来する人々を見守ってきたことであろう。
夏の境の明神再訪2001年の7月、前回は歩きのために断念した旗宿の白河の関(古関蹟)を訪れることにして、その途中に再び境の明神を訪れた。同じ場所でも季節を違えることによって、印象はまるで違ってくる。木陰が涼しげである。蔭の向こうの夏の屈託のない明るさが、未知の地であるみちのくへの期待を高める。未知なるものへの畏怖や不安といった負の感情を取り除いた、乾いたエキゾチズムを覚える。
もうひとつ気に掛けていたことは、1988年の夏に司馬遼太郎がこの場所を訪れて、べた褒めしているのである。その景色とはいかほどのものであるか自分の目で確かめたいと思っていた。その文章とは
「境の明神」と呼ばれる幽邃(ゆうすい)な場所がある。ここが関趾(せきし)であるかどうかはべつとして、江戸時代、参勤交代の大名行列が通る道だったのである。まわりは杉木立で、蒼古(そうこ)としている。 「しずかですな」須田画伯が、ため息をついた。大景観というわけではないが、小ぶりな空間のなかに歴史が苔の下にもぐりこんで息づいていて、たとえ北か南へ数メートル行っても、その気分がこわれてしまう。こんないい所へくるというのも、生涯で何度あるかわからない。 一所二社の間の「小ぶりな空間」にこの大作家も歴史を感じている。そして、「小ぶりな空間」から、その向こうにひろがる(これから訪れる)みちのくの土地や風土や歴史をのぞき見ようとしているのである。この下野と奥羽との国界は、やはり、みちのくのエキゾチズムがひとところに収斂する特別な場所である。作家の感想に同意を与え、夏もまた良いなと思った。
二所関址碑境の明神はいかにも国境としての体裁を整え、またこの街道が古代からあったこともうかがえる。この地に古来の「白河の関」を想定しようとするのも、なるほどもっともらしい。旗宿を古関跡だと結論づけた松平定信が『退閑雑記』のなかで「白坂へいたる。例のごとく境明神へまうでぬ。こゝを関明神などいひて、白川の関の旧跡といふ、あやまりなり」と指摘しているように、江戸時代(寛政年間)には既に境の明神を「白河の関」だとする通説があったことが伺える。松平 定信より100年前、松尾芭蕉の『奥の細道』に同行した弟子の曾良が『曾良随行日記』のなかで、境の明神のことを「関明神」として記しているのも、当時からあったその通説を踏まえたためであろう。ただし曾良は続けて「古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿ヘ行」と書いているので、両者の区別はついていたことがわかる。 境の明神には、ここが「白河の関」であるという説にもとづいて、二所関址碑が立てられている。 夏の境明神(福島県白河市側) 境の明神からそのまま道を北に向かい、車で3分ほど、ゆるやかな坂道を下りきったあたりで右に曲がる。角に「白河の関」の案内が出ている。再び丘陵に分け入るように進む。途中で、左に折れ、心細くなるほどの細い道をたどっていくと谷間が開けてくる。県道に出てしまえば、案内も整っていて、旗宿の古関蹟に着く。白河神社の入り口から10メートルほど離れたところに駐車場がある(さらに奥に行くと「関の森公園」という公園が整備されていて、そこの駐車場も利用できる。飲食設備やレクリエーション設備も整っている)。 街道筋にある境の明神にまず詣でそれから古関蹟を訪れるのは、松尾芭蕉や曾良もたどったのと同じコースである。 白河の関(旗宿古関蹟)
白河の関跡は、小高い丘になっていて、木が鬱そうと茂っている。
かつてはここにも玉津島、住吉の一対の神社があり国界の様子をなしていたらしいが、松平定信がこの旗宿を古関蹟とした頃には、既に落ちぶれていたらしい。今では白河神社が建てられている。祭神に天太玉命、中筒男命(住吉三神の一)、衣通姫命(玉津島神社の祭神)を祭り、往時の名残をとどめている。
空堀が廻らしてある、関守居館跡。いつの時代のものか定かではないが、この空堀を見たときに初めて「白河の関」の実体を見た気がした。古代にあって、白河の関は単に国界を取り締まっていただけでなく、蝦夷地に対し睨みを利かす軍事要塞であった。
続日本紀には次のような記載がある「陸奥国、新タニ白河軍団ヲ置キ、又丹取軍団ヲ改メテ玉作軍団ト為サンコトヲ請フ。並ンデ之ヲ許ス。(神亀5年4月11日)」。ただ軍勢を差し向けるだけでなく、和人を入植させ、蝦夷の俘囚を味方に引き入れ、屯田制としての「軍団」を組織していったのである。侵略というよりは、同化策である。このあたりの記述を読むと、「関」というよりは「柵」という字がふさわしい気がする。厳密な区別は知らないが。 歌枕とは別の、もうひとつの歴史である。 |
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履歴: | 2001年8月大幅更改し博物紀行に移転
2001年7月白河の関(旗宿古関蹟)取材、境の明神再訪 1998年 新規作成(旧サイト) 1998年3月境の明神取材 |