「本邦最高國道」国道最高地点についての考察

オークションで見かけた1枚の絵葉書。「信州和田峠 本邦最高國道にして…」と記されていた。何気なしに入札したところ、札が落ちた。 年代を推定してみると明治40年から大正7年のものらしい。この史料をもとに、国道の最高地点についてその来歴を考察してみた。



日本の国道全体を見渡してその中で一番標高の高い場所と言えば、国道292号の渋峠(2,172m)である。現地には「日本国道最高地点」という石碑も立てられている。この国道最高地点も時代によって変化し、渋峠の有料道路「志賀草津道路」が1992年に無料開放されて国道に組み入れられる前は、国道299号の麦草峠(2,127m)が国道の最高地点だった。

では国道最高地点を一番昔まで遡ると、いつの時代までたどり着くのか。

国道と言っているからには国道という制度ができていないといけないが、少し概念的に、ある道路網を想定してその中で比較するという作業の来歴について考えてみたいと思う。
江戸時代には幕府が直接管理する五街道をはじめ脇街道が全国に広がっていたが、こうした街道を集めて一括りにして、「諸街道の中での最高地点はどこか」という思索はおこなわれただろうか。もしかしたら史料が知られていないだけかもしれないが、少なくとも江戸時代の街道を扱った本には「ある街道の中での最高所」や「道中の難所」という説明はあるが、日本諸街道中の最高地点を記したものはないと思われる。つまり道路網全体を眺めてその中で最高地点を探し出すという作業は、近代国道制度ができてからのものではないだろうか。

日本における近代国道制度は、明治9年(1876年)の国道、県道、里道の制度に始まるが、国道網として整備されるのは明治18年(1885年)内務省告示第6号「国道表」による。 この国道網の中で最高地点はいつ頃から意識されていたか。
手元に絵葉書がある。和田峠(長野県)の茶屋を写した写真で、その説明に「信州和田峠 本邦最高國道にして海抜千幾百尺古来難所と称せらる」とある。「本邦最高國道として」というのは、その後に海抜標高が続いていることからも、日本の国道最高地点という主張である。和田峠は江戸時代の中山道の難所として知られ、中山道を引き継ぐ形で明治18年の「国道表」では国道7号に指定されている。 標高は1531mである。「尺」という単位を使っているが、数字から考えるとメートルのことを指していると思われる。
年代は直接書かれていないが、絵葉書の様式から明治40年4月〜大正7年3月までのものと推定され得る。
この絵葉書から、少なくとも明治末〜大正の初めの頃には、明治期の国道網をもとに国道最高地点という概念が成立していたことがわかる。

以下は、国道最高地点が現われた歴史的な背景についての考察である。
国道最高地点を割り出すには測量が必要になる。日本の近代測量技術も、国道の制度と同様に明治期に始まり、明治16年(1883年)に三角点・水準点様式を制定して以降、順次日本全国の測量に取り掛かっている。特に標高を知る水準点は国道沿いに設けられていったため、明治後期には国道路線の標高が知れるようになっていたと思われる。

また国道最高地点が仮に求められたとして、それが絵葉書に記されているというのも興味あるところである。つまり「一番」とか「最高」とか言うものへの関心というのはいつの時代も変わっておらず、ゆえに新しい概念であったはずの「本邦最高國道」がこうした絵葉書にまで記されているわけである。

そもそもはヤフオクで見かけた1枚の絵葉書。「本邦最高國道」という一言から近代国道の成立、さらには測量のこと、民俗のことまで、思索が広がった。又愉しからずや。

本邦最高国道和田峠
本邦最高国道和田峠

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