「二居新道」の旧道跡を探索する

新潟県、越後湯沢の山の中、廃道になったかつての幹線道路に、上路式ボウストリングトラスという珍しい形式の トラス橋が架かっているという話を聞いた。境橋という橋名も判明し、探索のレポートも 「国道17号旧道 二居峡谷」として公開されている。
最初はお気軽に橋さえ見ることができればそれで満足のつもりでいたのだが、境橋へ行くために歩いた約500mの区間で、何かが 変わってしまった。どうやら、二居新道の廃道区間に魅せられてしまったようだ。もっと言うと、道路の近代化改良とは、こういうルートを 選び、こういう道路構造を採るといった、思想に触れてしまったような気がする。境橋そっちのけで、まずは「二居新道」の旧道跡を探索 したページを作りたくなってしまった。


スノーシェッドとスノーシェッドの間に、旧道への分岐点がある。 ここはまだ間隔が広くて現道を往来する車を見通せるので余裕があるが、出入りの際の左右の確認には気を使う。

国道17号からの分岐点

国道17号の旧道へ入ったと思ったら、さらに分岐する。 道の幅員は狭くなり、くねり始める。ここからが本来の「旧道」という雰囲気がしてくる。
ただ、この区間は貝掛温泉へのアクセス路として今も使われている「現道」である。「旧道」探索はこの先、 貝掛温泉への分岐と別れてからが本番である。

旧道からの分岐点

貝掛温泉との分岐点を過ぎると、出し抜けに「旧三国街道」の看板が現われた。
江戸時代以前の旧三国街道と、明治36年に開鑿された(従来の街道(旧三国街道)に対しての) 二居新道とは異なるが、このあたりはまだ両者が重なっている所である。

旧三国街道の看板

「さらに分岐が続きます」

とっくにカーナビは役に立たなくなっていたが、心の中でそうつぶやきながら、車を進める。

この地点こそが旧三国街道と二居新道との分岐に当たる。旧三国街道は左、二居新道は右である。 旧三国街道は二居峠越えの山道、二居新道は清津川沿いの谷道と、この先分かれていく。

さらに分岐が続きます

車はここまで。

アスファルトの道は右へ続いているが、それも20mほど先で行き止まりになる。
二居新道はまっすぐ続いているが、笹が茂って藪漕ぎをしないといけない。 いずれにしてもここで車を乗り捨てなければならない。

車乗り入れ終点

笹の中を延々と薮漕ぎしないといけないかと思っていると、10mほどで道が開けた。
と同時に、前方に空が広がっている。
この先は清津川沿いの崖を開鑿した区間になる。

旧二居新道

清津川沿いの崖を開鑿した区間

予想していたよりも「拓けて」いる。かつて、馬車だの、大八車だの、(ボンネット型の)バスだのトラックだのが 往来した幹線道路の空間だから、これくらいの広さはなくてはいけない。近代化改良された道路の廃道探索と、箱根の石畳や 宿場町の鍵辻の道を歩く旧街道の散策とでは、道路空間の広さが決定的に違う。車が通れるだけの道路空間を確保するというのは そもそも大事業で、かつ近代はその大事業を求め、そして成し遂げ、使った挙句に、破棄した。
明治以降の大事業によって確保された広い空間を、今は誰も通らない。ただ自分だけがたたずんでいる。 それは、ちょっとした懐古であり、優越感であり、近代批判でもあるかな。

家に帰ってきてから、廃道の平らな部分を「塗って」みた。近代化改良された道路空間が浮かび上がって見えた。

旧二居新道

さらに行くと、谷側に縁石が並んでいるところにたどり着く。コンクリート製の縁石に 金具がついていることから、ガードレール様になっていたのだと思われる。

こうした縁石が設けられるということは崖が厳しいということでもあり、実際 一部崩落している箇所もある。

旧二居新道

旧二居新道

旧二居新道

境橋

今回の探索の目的地、境橋にたどり着いた。
写真で見ると薮なのか橋なのか見分けがつかないが、親柱が残っていて橋の存在を示してくれている。

旧二居新道・境橋

渡り終えた境橋を振り返る

旧二居新道・境橋

橋の下部には「逆様になった」ボウストリングトラスがみえる。
橋の薄いコンクリート路盤にも土が積もり、それに根を下ろして木々が生長している。 廃道になってから過ぎた年月を感じさせてくれる。

旧二居新道・境橋

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