ニュージャージーについて

地勢

東をハドソン河、西をデラウェア河が流れ、それぞれニューヨーク、ペンシルヴァニア州との州境になっているので、アメリカの州には珍しく人為的な直線の州境が少ない(ニューヨーク州都接する北側に直線の州境があるだけ)。面積は7400平方マイル。
自由の女神というとニューヨーク市の観光名所の筆頭だが、マンハッタン沖に浮かぶ自由の女神のあるリバティ島、移民局のあったエリス島は、ニュージャージーの土地である。
州の最高地点はハイ・ポイント(日本語に訳すとそのまんま「最高地点」。芸がなさすぎる)の1803フィートで、低い州だが、中西部の草原州と違って起伏感はそれなりにある。
大西洋に面し、沿海部には砂州が発達している。

地理

ニュージャージー州は、あまりパッとしない州である。日本の知り合いにニュージャージーの印象を聞くと「ああ、牛で有名なところですね」という答えが返ってくる。牛のジャージー種からの連想だが、この由来になっているのは本国イギリスのジャージー地方であって、ニュージャージーとは関係ない。「人よりも羊が多いところですね」というのは、ニュージーランドと間違えている。

実際のところ、ニューヨーク市とフィラデルフィア市に挟まれるようにしてあるニュージャージーには、対抗できる大都市もなく、飛び抜けて有名な観光名所もない。両都市の郊外住宅地と化していると言っても過言ではない。人口は800万人あまりで全米50州の中で9位だが、面積は7400平方マイルで下から数えた方が早い46位(それでも岩手県とほぼ同じ大きさ。ちなみに岩手県の人口は143万人)。狭い土地に多くの人間が住んでいるから、人口密度は全米で1位になっている。羊どころか、人間がひしめいている州である。住宅事情もアメリカの中では悪く、家は狭く、家賃は高い。
州を南北にニュージャージーターンパイク(有料道路:I-95にも指定されていてニュージャージーのみならず東海岸の大動脈)やアムトラックの線路(長距離旅客鉄道)が貫き、北東回廊と呼ばれる交通路・都市帯を形成している。郊外住宅地が広がる中に何車線も広がる高速道路が走る景観は、ある意味戦後アメリカを代表する景観で、サイモン&ガーファンクルは「♪僕はニュージャージー・ターンパイクを過ぎる車の数をぼんやり数えた」と歌い込んでいる。


ニュージャージー・ターンパイク(ウッドブリッジ付近)。このあたりはNJターンパイクの中でも最大車線を誇るところで、自家用車専用線 Cars Only(3車線)と混在線 Cars & Trucks(3車線)に分かれていて、上下それぞれ6車線、計12車線を数える(写真ではさらにサービスエリアへの分岐車線があって、もっと多くの車線が写っている)。

ニューヨーク市を控えて、大規模な港湾や石油化学コンビナートが立地している。伝統的に化学工業や製薬業が発達しているほか、発明王エジソンが研究所を構えていたことに由来してエレクトロニクス、素材などの分野で先端的な研究を行なっている研究所も多い。映画A.I.で主人公のアンドロイドが作られたのがニュージャージーの研究所になっていたが、そういう州の特徴を踏まえた設定である。
州のニックネームは"Garen State" (田園の州)といって、北東回廊の「帯」をちょっとはずれるとその名の通り畑や牧草地が広がる。ちょっと郊外に出ただけでうっそうとした森が残されているのも、アメリカらしい。
住宅地、コンビナート、そして田園。日本で言うと東京の陰に隠れている千葉県といった趣でいる。あるいは、東海道・お伊勢参りの宿場町として歴史を持ちながらもすっかりコンビナートと公害で有名になってしまった四日市市という感じでもある。映画Beauty Pagent(邦題:デンジャラス・ビューティ)では、主人公が「ニュージャージーを『田園の州』と言うのは、コンビナートで汚れきった州とは言えないからじゃないの」と皮肉を言う場面もある。

英領植民地で古くから栄えたニューヨーク市とフィラデルフィア市との間にあるから、東海岸の交通路としての歴史は長い。独立戦争の時には拠点争いをするイギリス軍と大陸軍とがニュージャージー州を駆け回り、"The Crossroads of the Revolution" (独立戦争の十字路)という言い方がされることもある。数で言うと独立戦争時の戦闘の大半はニュージャージー州で繰り広げられた。州内には、戦跡や、ワシントンが拠点とした場所がいくつも残っている。その中でも、イギリス軍の攻撃に堪えながら越冬し、トレントンをイギリス軍から奪回するために1776年クリスマスの夜にデラウェア河を渡河した作戦は、戦局を大きく変えた重要な戦いとなった。

歴史

ニュージャージー州は、イギリスではなく、オランダの植民地を起源とする。もともとマンハッタンをニューアムステルダムと称したように、ニューヨーク市からニュージャージーにかけての一帯はオランダ人が開拓した。1629年にMichael Pauwがハドソン川西岸のPavonia(現在のJersey City)の土地の割譲を受けたのが、オランダ人入植の始まりと言われている。オランダ人と前後して、1638年にデラウェア河沿いの南部ジャージーにはスウェーデン人Peter Minuitが入植してニュースウェーデンを名乗った。1655年には、オランダ軍がスウェーデンの入植地を占拠している。
そのオランダも1664年にイギリスに降伏し、ニュージャージーはヨーク公ジェイムズに与えられた。 このヨーク公は現在のニューヨークの由来になっていて、この時点ではニュージャージーはニューヨークの一部という扱いであった。1738年にニューヨークから分離して独立した英領植民地となり、Lewis Morrisが初代の総督に就いた。ここにニュージャージーが誕生した。その後独立13州に名を連ね、1787年に3番目の州として連邦に加盟している。

ニューヨーク市やフィラデルフィア市という大市場に隣接していたことから、農業が盛んに行なわれた。
また開拓当初は、都市での燃料需要や外洋航海の蒸気船の燃料としてのまきの重要な供給地だった。まきは重量が重く、燃料として生活になくてはならない(必需財)ため価格は安いことが望ましいために、消費地からの距離とそれに応じた輸送費によって農作物の立地が決定されるというチューネンの孤立国モデルでは、都市に最も隣接して作付けされる作物とされている。開拓当初のニュージャージーには、このモデルがよく当てはまったという研究もなされている。

農業州であると同時に、早くから工業がさかんとなったのもニュージャージーの特徴である。これも大都市への工業用品の供給地という意味合いが強いが、ニューヨーク市に隣接しているということは同時に、いち早く産業革命を迎えたイギリスから最新の機械や、技術、技術者、労働者が入って気易かったということでもある。

移民の玄関口

ジャージーショア

(このページ続く)


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