島に行こう

佐柳島(さなぎしま)(香川県多度津町・塩飽諸島)

瀬戸内海・塩飽諸島の西のはずれに、佐柳島がある。これで「さなぎ」と言う。

私がこの島に行こうと思ったきっかけは、アメリカにある。
サンフランシスコを訪れたとき、幕末に太平洋を横断した咸臨丸の水夫の墓が現地の日本人共同墓地にあると聞いて参りに出かけたのだ。
アメリカで亡くなった水夫は3人いた。そのうちの一人を冨蔵と言い、墓石に「讃岐國塩飽佐柳嶋」と生地が刻んであった。当時まだ一介の水夫の身分には名字は許されていなかった。代わりに、讃岐國塩飽佐柳嶋の冨蔵というふうに土地でもって本人を特定(アイデンティファイ)していたわけで、それだけに、彼の背後にある風土、景色というものまで見てみないとこの墓参りは完結していないように思われて、心に引っ掛かっていた。

佐柳島について調べてみると、この島には独特のお墓の制度が残されているという。遺骸を埋める「埋め墓」とお参りする「参り墓」を分けて作る両墓制で、島の長崎地区のものは香川県の文化財指定を受けているという。人々の生活に根ざしている墓だけに、ガイドブックでも控えめにしか書いてないが、島で見るべきものと言ったら他には見あたらない。

冨蔵の墓と、両墓制の墓地、こう言うと地元の人には申し訳ないが、墓を見に行くために佐柳島へ渡るようなものである。

さすがに、このためだけにわざわざ出かける気にはならなかったが、朝一番のフェリーで島に渡ると2時間ほど滞在して午前中には再び多度津に戻ってくることが出来ることがわかった。ならば、塩飽の島巡りとして午後は本島(ほんじま)に渡ることにすれば、ようやく旅のボリュームが出てくるように思えてきた。ようやく腰があがった。

神戸三宮から0時30分発のジャンボフェリー夜行便に乗ると、高松東港に早朝4時10分に到着する。高松駅まで連絡バスがある。都合良く高松駅4時58分発の始発電車・今治行きに乗ることができ、多度津駅には5時37分に着く。
佐柳島行きフェリーの出港時刻は6時55分。港というのは大抵交通の不便な場所にある。この場合の交通とは鉄道のことだが、駅から遠い上に、埠頭だとか工場だとかが点在するだだっ広い敷地を突っ切って行かなければならないことが多い。つい用心してしまうのだが、1時間もあれば歩いてでも到達できると思われる。満足のいく乗り継ぎ計画が出来上がった。


多度津港と高見島・佐柳島を結ぶ新なぎさ丸

多度津港から、高見島を経由して、佐柳島までを結んでいる新なぎさ丸。この船に乗船する。郵便のマーク「〒」が付いているのが、島へ渡るという気分を盛り上げてくれる。

讃岐富士がシルエットになって浮かび上がる。

瀬戸内海はいろいろなものが運ばれていく。船の艦橋とファンネル(煙突)もこうして運ばれて、どこかのドックで組み立てられることだろう。

船から見た高見島

高見島

佐柳島へ行くフェリーは途中高見島にも立ち寄る。
高見島は山が険しく、斜面にへばり付くように集落が成っている。

船から見た佐柳島本浦

佐柳島本浦

船が多度津を出港して約1時間、ようやく佐柳島が見えてきた。
南北に細長い佐柳島には、南に本浦、北に長崎の集落があり、互いに1キロメートルほど離れている。多度津から来るとまず本浦の集落が見えてくるが、この船は本浦には寄港せずに長崎に直行する。本浦には、この便の折り返しの便が立ち寄って多度津へと「戻っていく」ようになっている。
今回の行程は、長崎で船を降りて埋め墓を見た後、徒歩で本浦まで移動し、本浦の浄蓮寺で咸臨丸水夫の冨蔵の墓を詣で、本浦から船で多度津へ戻る予定にしている。本浦と長崎を両方とも散策することが出きるので、都合の良い船のダイヤになっている。

船から見た佐柳島小学校

佐柳小中学校(廃校)

本浦を素通りした船は、南北に細長い佐柳島に沿って北上していく。途中、小学校らしい建物が見えた。ちょうど本浦と長崎の中間地点あたりである。佐柳島には、郵便局や診療所、多度津町の支所といった施設は全て本浦にあるのに、小学校だけは「公平に」両集落の中間に位置していたことがおもしろい。

船から見た佐柳島長崎

佐柳島長崎

いよいよ、長崎に到着である。


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塩飽諸島
本島(ほんじま)

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