戦後も残った皇紀:2607年銘入りのレール

鉄道のレールには製造者や製造年月、製造法、発注者などの銘が刻まれている。ふだんは見ることはできないが、役目を終えた後のレールがプラットフォームの覆い屋根や跨線橋、駅の境界柵やガードレールなどに鋼材として再利用されていると、簡単にそのレールの銘を観察できるようになる。ペンキを塗られていたり、折り曲げられていたりするが、ようやくにしてレールの来歴が明らかになる。

JR富山駅で昭和22年(1947年)に相当する皇紀2607年銘のあるレールが見つかっている。
細かな場所は3番ホーム跨線橋米原側出口で、跨線橋の柱に鋼材の替わりに転用されている。
レールには左から、○S(円囲みS)、2607 ||| OH と刻まれている。○Sは当時の日本製鉄(現新日鐵)製を意味し、2607は皇紀での製造年、その後の縦の3本線は製造月を示している。OHは製造法のひとつである平炉製鋼法を意味する。
写真(90度回転)

日本製鉄は、昭和8年(1933年)の日本製鉄株式会社法にもとづいて、官営八幡製鉄所を中心として釜石・輪西・三菱・九州・富士の5製鉄会社が合併して昭和9年(1934年)にできた。製鉄業界を統合してできた国策会社である。
戦後、昭和25年(1950年)過度経済力集中防止法により八幡製鉄と富士製鉄とに解体された。昭和45年(1970年)にこの八幡製鉄と富士製鉄とが再び合併し、新しい日本製鉄=新日本製鐵になった。

皇紀は最初の天皇とされる神武天皇が即位したと伝えられている年(紀元前660年)を元年とした紀年法で、明治5年11月15日(1872年12月15日)に政府が公式に採用した。例えば、旧日本軍の兵器の型式はその兵器が採用された年で表わされているが、その年は皇紀のものである(ゼロ式戦闘機(ゼロ戦)=皇紀2600年(昭和15年、1940年)に採用された戦闘機)。
昭和15年(1940年)が皇紀2600年の節目の年に当たるということで、日本全国で様々な記念行事が行なわれた。国策会社の日本製鉄でもこれを機にレールの製造年の表記を皇紀に切り替えた。これが古レールに皇紀が見られる所以である。
このように皇紀は明治憲法下での天皇制や戦争遂行と深くかかわっていたため、戦後は公式には使われなくなった。
ところが戦後の混乱期数年間は、皇紀年のレールがそのまま製造された。物がなく庶民は闇市や買い出しによってなんとか生活していた頃であり、産業界では石炭・電力・鉄鋼などの基幹産業に資源を優先的に投入する傾斜生産方式や、少ない資源を集中させて生産を維持する集中生産方式をとってなんとか生産活動を維持しようとしていた頃である。日本製鉄でも八幡製鉄所に資源を集中させて鉄鋼生産を継続させたそうで、紀年法の変更までは思いが及ばなかったのだろう。富山駅の皇紀2607年銘の古レールはこうした歴史を物語る貴重な証人である。

嵐さんの古レールの研究によると、戦前・戦中と戦後の混乱期を通じて、昭和15年(1940年)から昭和23年(1948年)10月の間、日本製鉄製のレールに皇紀が用いられていたとのことである。


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2000年8月取材:JR富山駅

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