続日本紀には天平14年2月5日に恭仁京から近江国甲賀郡へ至る道を建設したという記事が出てから、紫香楽宮への行幸の記事が頻出する。だが聖武天皇は紫香楽宮に行幸を繰り返しながらも、この間、平城京の建物を恭仁京に移転させ、同時に難波宮に行幸し遷都を勅するなど、都の定まらない状態が続く。天平15年10月16日に東海・東山・北陸の調庸を紫香楽宮に運ばせるように命じる記事があり、盧舍那佛像(大仏)を作る構想が明らかにされる。紫香楽宮の最盛期は天平16年11月13日、聖武天皇の親臨を得て盧舍那佛像の骨柱を立てる儀式が行なわれたあたりで、年が明けて天平17年の正月には大楯槍が紫香楽宮の御門に立てられて、さながら遷都したようであった。だが、この頃から山火事の記事が増え始め、紫香楽遷都に対して不穏な雰囲気が漂い始める。天平17年5月6日、ついに聖武天皇は紫香楽宮を出て恭仁京に戻るが、その時百姓から万歳の声が挙がったという。この恭仁京帰還は地震の続く中で行なわれていたというから、聖武天皇の彷徨が天変地異をもたらしている見方が人々の間に広まっていたことだろう。5月11日、天皇はついに平城京に戻るが、すでに紫香楽宮は荒廃していたことが記事に見える。
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