4番目の茶会事件−グリニッジ紅茶焼き払い事件

ニュージャージー州グリニッジは、デラウェア湾に注ぐコハンセイ川の河口から5マイルほど遡ったところに位置する小さな村である。村の中を通りが1本南北に貫いていて、それとこの村の属するカンバーランド郡の中心都市ブリッジトンから通じる道路とが交わる角に郵便局を兼ねた雑貨屋が1軒ある。それで全てである。
この村の誇りは、かつて植民地時代に河港として栄えたことと、アメリカ独立史の中で紅茶焼き払い事件のあった場所として歴史書に名前が載っている−有名なボストンの茶会事件の補足説明としてであっても−ことである。

1773年12月16日ボストンで、インディアンのモホーク族に変装した植民地住民が停泊中のイギリス茶船を襲撃し積み荷の茶を海中に投棄した、茶会事件が起きる。これは、イギリス本国が茶条例によってアメリカ植民地における茶の販売をイギリス・東インド会社の専売としたことへの反発だった。この反英の動きはボストンだけにとどまらず、同じ月今度はニューヨークでイギリス商船が入港を拒否され、翌年3月には類似の茶の海中投棄事件がニューヨークでも起きた。
かねてからイギリス本国による一方的な重税課税への不満をつのらせていた植民地住民は、1774年9月フィラデルフィアに12州の代表が集まって第1回大陸会議を開催し、イギリス本国による植民地課税を非難する「宣言と決議」を採択した。さらにイギリス商品の不買同盟を結成し、不買・排斥運動を植民地諸州の対英闘争の基本方針として公にした。
これを受けて、今度はメリーランド州のアナポリスで10月18日、群衆がペッギィ・スチュウアート号(the Peggy Stewart)の船主に積み荷の茶を焼き払わせるという事件が起きた。
そして、独立戦争の一歩手前、茶条例をめぐる不買・排斥運動の4番目の実力行使としてグリニッジで茶の焼き払い事件が起きるのである。

村を貫いている通りに面してグリニッジ茶焼き払い事件の記念碑が立つ。

アナポリスでの焼き払い事件があった頃、グレイハウンド号(Greyhound)というイギリス商船が茶を積んでフィラデルフィアへと向かっていた。だが同船は途中デラウェア湾入り口の岬に立ち寄った際に、フィラデルフィアで開かれた大陸会議における反英決議やアナポリスでの事件を聞き及び、そのまま入港するのは危険と判断した。そこで、グリニッジにいる船長の知り合いの親英家(忠誠派:ローヤリスト)ダニエル・ボウエン(Daniel Bowen) のところに積み荷の茶を預けることにした。グリニッジは当時水運で栄え、18世紀の初めに[パースアンボイ]、バーリントンと並んでニュージャージー植民地政府から州内の3つの交易港に指定されていたため、フィラデルフィアの代替港としてイギリス商船が入港可能であった。
一方、グリニッジのPhilip Vickers Fithianは、ヴァージニアからの帰り、ちょうど焼き払い事件があった数日後にまだ興奮冷めやらぬアナポリスを通りかかり、その様子を村人に吹聴した。フィラデルフィアで開催された大陸会議の熱気も逐次伝わってきていたことだろう。グリニッジは1714年に植民地課税に反対して抗議を行なった伝統のある土地である。イギリス商船の茶が村に隠されていると知った村人の激昂は最高潮に達した。
1774年12月22日、村はずれのリチャード・ハウエル(Richard Howell)の家に集まった25人の村人たちはそこでインディアンの衣装に着替え、茶が隠されているダニエル・ボウエンの倉庫を襲い、奪った茶を広場で燃やした。

船主たちは植民地知事のウイリアム・フランクリンに事件を訴えた。彼は独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンの息子であるが、イギリス女王から任命された植民地知事として忠誠派の立場を取り、親子で立場が分かれていた。知事は始め、地元のシェリフのジョナサン・エルマー(Jonathan Elmer)を指名してこの事件を裁かせた。エルマーは陪審員にわざとウイッグ党や村人に与する人々を選び、その結果無罪の評決となった。この裁判に不満な知事はエルマーをシェリフから解任し、代わりに茶を隠し置くのに協力したボウエンを新たにシェリフに任命した。ボウエンの元で開かれた2回目の審議は当然忠誠派−イギリス商船側に有利になるはずであったが、陪審員たちは再度無罪の評決を下した。こうしてグリニッジの茶焼き払い事件は村人たちの完全な勝利に終わった。

記念碑の側面には事件に参加した人々の名前が刻まれている。アナポリスでの焼き払い事件の様子を伝えたPhilip Vickers Fithianや集合場所となったRichard Howellの名前が見える。反対側の側面にも名前が刻んであり、全員で25人を数える。

グリニッジでの茶の焼き払い事件は、ボストンの茶会事件からちょうど1年後の出来事だった。この間に事態は進展し、茶条例に対する特定の抗議活動が本国からの植民地独立を求める独立運動に結実しようとしていた。グリニッジで茶焼き払い事件にかかわった人々は、反英闘争の先駆的英雄としてその後のニュージャージー州の政界で大きな影響力を持つようになる。植民地知事から最初に関係者の審議を命じられわざと村人に有利な計らいをして解任されたシェリフのエルマーは、ニュージャージー州選出の初代上院議員に選ばれている。襲撃に向かう人々の集合場所となったリチャード・ハウエルは、1792年にニュージャージー州知事に選ばれる。ジョセフ・ブルームフィールド(Joseph Bloomfield)は2度にわたる裁判で弁護士を勤めたが、彼はハウエルの後に州知事に就任している。
グリニッジの事件自体は最後に起きた茶会事件として、事件そのものが歴史の大局に与える影響はほとんどないと言って良い。フィラデルフィアで大陸会議が開かれイギリス商品の排斥が政治的なアジェンダになった後であり、既に運動は別の次元に移っている。しかも政治的な後ろ盾を得た後のデモンストレーション(実力行使)としても、アナポリスの事件の二番煎じにすぎない。つまるところ、4番目を数える茶会事件であった。
もしグリニッジ事件を総括するならば、当事者たちがアメリカ独立の先駆を為したという栄誉を得るには必要十分な出来事であったと言うのが一番ふさわしいであろう。日本の明治維新に例えるならば、薩長の足軽がひと手柄立てて知事様になったようなものだろうか。片や、ニュージャージー内外の人々に、忠誠派の悪役植民地知事としてウイリアム・フランクリンが強く印象付けられたことだろう。シェリフを交替させて2度の裁判を開くという茶番を、彼はその与えられた役割に忠実に演じたのである。

1908年9月30日に立てられたと記念碑に記してある。建立の式典は700人を越える人々を集めて盛大に行なわれたという。

この項目の作成に当たっては[The American Local History Networkのグリニッジのページ]を大いに参考しました。


港町の面影

村はずれにはコハンセイ川が河口に作り出した湿地帯が広がる

グリニッジの繁栄は完全に過去の物になっている。その「けち」の付き始めが、1748年にセイラム郡から分かれてカンバーランド郡が独立した郡として設立されたときの郡役所の場所に選ばれなかったことにある。臨時の郡役所こそグリニッジに置かれたが、結局郡の中心はグリニッジからコハンセイ川を更に5マイルほど遡ったコハンセイ・ブリッジ(現在のブリッジトン)に決定された。首都ワシントンDCとニューヨーク市のように政治と経済活動を分離しておこうという「アメリカ人」特有のバランス感覚が働いたのであろうか。それとも将来に対する先見性があったのだろうか。コハンセイ・ブリッジは文字通りコハンセイ川の渡河地点で、街道の要衝をなす地である。人や物の動きが水上交通から陸上交通へと移るにつれて、グリニッジの役割は小さくなり、コハンセイ・ブリッジの役割は高まった。[ブリッジトンの町並み]

グリニッジは18世紀の初めには州内3箇所しかない植民地政府公認の交易港のひとつであったが、この頃から独立戦争にかけてが、経済的繁栄の頂点であったと言える。商人やその倉庫、造船業や修理業が立地し、一時は7軒のタバーン(商人宿兼飲み屋)が軒を連ねたという。グリニッジにかろうじて残っている当時の繁栄の跡をめぐってみることにした。

ギボン・ハウス(Gibbon House)

グリニッジの大商人だったニコラス・ギボン(Nicholas Gibbon)が1730年に建てた邸宅で、現在はカンバーランド郡歴史協会の博物館となっている。

石造りのタバーン(Old Stone Tavern)

1728年にジェイコブ・ウェア(Jacob Ware)によって建てられた商人宿兼飲み屋。案内の看板によると"The oldest tavern in the county where one could obtain bedde and board for man and beast"と言われていたらしい。beastはここでは馬などの乗用・運搬用の家畜の意。



緑色(Green)の魔女(Witch)でグリニッジ(Greenwich)

[ブリッジトンの町並み]

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