アメリカ調査旅行>>ニュージャージー物語:エジソンの足跡

メンロパーク・エジソン研究所跡

1876年から1887年までメンロパークに研究所を置いたエジソンは、1877年にはさっそくレコードの原形と言えるフォノグラフ(Phonograph)を発明し、メンロパークの魔法使い(The Wizard of Menlo Park)として一躍有名になった。
このフォノグラフの経験を生かして、1877年には音声を安定して電気信号に変換する「送信機」を独自に開発し、ベルの開発した電話に大きな改良を施した。
1879年には白熱電球の改良に成功し、実用化にこぎつけた。この時に、フィラメントに日本の京都の竹を炭化させた物を用いて耐久性のある電球を作りだしたエピソードは良く知られている。だがそれだけではない。エジソンは、発電機、電力メーター、フューズ、フューズボックス、ソケットなど一連の装置を開発し、実際に町中で、家庭で、電灯を灯すためのシステムを統合的に作りだしたのだ。そして当時街灯として普及していたガス灯業者の反発を乗り越えて、ニューヨーク市で電球を用いた街灯をデモンストレーションして見せた。単なる町の発明家でなく、発明をいかに実用化して社会に受け入れさせるかということに才能を発揮したところに、エジソンの偉大さがある。
このようにメンロパーク時代はエジソンにとって最も脂ののった時期であり、彼の名声を不動のものにする発明や開発を成し遂げている。

エジソンの数々の発明や改良は確かに人々に利便性と愉しみをもたらしたが、そうした彼の社会への貢献は電球の実用化によって半ば伝説化されたきらいがある。電球で夜の暗闇を照らし出した(enlighten)という事実が逆にメタファーとして用いられ、エジソン本人は合理主義とその現われである科学技術によって人々をみじめな状態から救い出した啓蒙主義者(enlightenment)として言及されるのである。

今、メンロパークの研究所跡は空き地になっていて当時の建物は残っていないが、そこに大きな電灯を模したモニュメントが立てられている。近くを走っているニュージャージー・トランジット鉄道の車内からも、森の木立の上に丸い電球がぽこっと顔を出しているのを見ることができる。

当時の建物は、ミシガン州デトロイトの近くにあるヘンリー・フォードのグリーンフィールド野外博物館で、アメリカ史を伝えるテーマパークの展示のひとつとしてこの復元されたものを見ることができる。自動車王のフォードはエジソンと関わりが深く、エジソンがウエスト・オレンジに研究所を移した後、1920年代に、もう使わなくなったメンロパーク研究所の建物をフォードがグリーンフィールドに建設していた屋外博物館に移設して保存しようとしたことがあった。フォードとエジソンがメンロパークを訪れてみると、建物は既に崩れかけていて手遅れであった。それでもフォードは、残された建材を使って写真を元にして彼の屋外博物館に研究所の建物を復元したのである。 [参考:グリーンフィールド野外博物館のメンロパーク研究所(英語)]

ニュージャージー・トランジットのエジソン駅に飾られている、ステンド・グラス。右の写真、真ん中にエジソンが描かれている。多様な人種が描かれているのがアメリカらしい。
町の名もエジソンにちなんで付けられているが、メンロパークの研究所がある場所は町域のはずれで、マンハッタンから電車で行く場合はニュージャージー・トランジットの駅で言うとメトロパーク Metro Parkが近い(メンロパークとメトロパークでまぎらわしいが、この駅の近くに計画的なオフィス街が形成され、それでメトロパークという名前が付けられている。大阪のビジネス・パークというのと似たような感覚である)。
自動車を利用の場合は、ガーデン・ステイト・パークウェイのメンロパークの出口を出て右折し、エジソンの町の案内板を過ぎて右の住宅街の中になる。

[ウエストオレンジの研究所跡]
エジソンがなぜ京都産の竹を持っていたか、その謎がここにある。

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