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落流と起業家精神・シルクの町の原動力

写真は大滝と落差を利用した水力発電所。この水力発電所も、SUMが動力源の変化に対応して建設し運営したものである。

ニュージャージー州パターソンは、パッセイク川(Passaic)中流にある大滝(The Great Fall)のたもとに位置している。大滝の高さは70フィート(約20メートル)あり、アメリカの植民地開拓のころからその存在が知られていた。
18世紀になるとこの落流を動力にして産業を興そうとする機運が高まり、1791年にアレクサンダー・ハミルトンが中心になって"The Society for Establishing Useful Manufactures (SUM)"を創設し水路(raceway)を建設した。パッセイク川の本流に堰を作ってそこから水路を引き入れて各工場に通し、落流を水力として利用できるようにしたのである。
ほどなく動力源は蒸気機関、そして電力に取って代わられることになるが、豊富な水が使えることから絹を原材料にした染色、紡織業が発展しパターソンは「シルクの町」として名を知られるようになった。
絹織物以外にも、パターソンにはめざましい産業がいくつも見られた。第二次世界大戦の頃までパターソンは航空機産業の中心地のひとつであった。ライト兄弟の創設した航空機会社がパターソンにエンジン工場を持っていて、ここで生産されたエンジンが大西洋発横断飛行に成功したリンドバーグのスプリット・オブ・セントルイス号に使われていたことでその性能の高さが知れ渡った。第二次世界大戦時のアメリカ軍戦闘機のエンジンの60%はパターソンで生産されたものだったと言う。また、1860年代に全米第2の蒸気機関車製造会社だったRogers Locomotive Worksも含めて、最盛期には4つの会社の蒸気機関車製造工場がパターソンに立地した。おもしろいところでは、コルト・リボルバー(拳銃)を発明したコルトがその初期にパターソンに工場を持っていた。会社は一旦倒産しコネチカット州に移り再建するのだが、パターソン時代に作られた銃は「パターソン・コルト」として愛好家の間で珍重されている。
このように、19世紀から20世紀の半ばにかけて、パターソンはアメリカの中でも主要な産業都市として発展を遂げた。

公共交通機関は、ニュージャージー・トランジット(NJ Transit)のメイン・ライン(Main Line)がホーボーケン(Hoboken)から通じている。ホーボーケンへはマンハッタンのミッドタウンの33rd StreetからPATHという地下鉄で行くことが出来る。ホーボーケンから30分、マンハッタンからでも乗り継ぎ時間を含めて1時間もあればたどり着ける距離だが、朝のホーボーケン行き、夕方のパターソン行き以外は便が極端に少なくなるので注意が必要。特に土曜日、日曜日は通勤需要がないため、数えるほどしか列車が運行されない。予め時刻表を調べておいた方がよいだろう。

今日ではかつて栄えた産業の多くがアメリカの南西部やさらには海外に流失してしまい、パターソンの工業は衰えてしまった。町中には往時を偲ばせる煉瓦造りの工場跡や水路跡などが残されている。大滝を中心としたかつての工場街はHistoric districtとして保存されている。再開発計画はあるようだが観光化はされておらず、ある意味、落ち着きを持った町になっている。
人口14万人。パッセイク郡の中心都市である。

今回のパターソン訪問は残念ながら車ではないので、ニューヨークの近郊鉄道であるニュージャージー・トランジット(NJ Transit)を使うことになる。ハドソン川のNJ側にあるホーボーケン・ターミナルで、2時間に1本の列車を捕まえてパターソン駅にたどり着いた。アメリカは車社会であり、ニューヨーク・マンハッタンへの通勤に鉄道を使うことはあっても昼間に奥様方が電車に乗って都心のデパートにお買い物ということはまずない(共働きか、奥様が買い物に出掛けるとしても車でショッピング・モールへ出掛ける)ので、マンハッタンから40km程の「大都市近郊」であっても鉄道はこのような有り様である。

パターソンの駅は高架になっていて、プラットフォームから町を見下ろすと白亜の時計台が見えた。市庁舎の時計台で、市内の至る所から眺めることができる。Market Streetという通りがパターソンの目抜き通りになっていて、町はずれにある駅から、市庁舎や銀行などがあるビジネス街を通って、大滝周辺の工場街まで、パターソンを貫いている。最初の目的地は2 Market St.という通りの端っこにあるパターソン博物館で、途中、市庁舎付近も通るがその周辺の観察は後回しにして、まずは博物館で町の情報を仕入れようと思う。


パターソン博物館

パターソン博物館はかつての蒸気機関車製造会社Rogers Locomotive Worksの組み立て工場跡を利用している。 道路に面して両開きのドアがずらりと見える。ここから完成した蒸気機関車を出したそうだ。
前庭にはこの工場で製造された蒸気機関車が置いてある。この299号は1906年に製造され、パナマ運河の建設に使われたそうだが、1979年に生まれ故郷のパターソンに戻って来たという経歴を持っている。
博物館の展示は、約3分の1のスペースが1902年2月の大火に関する展示に充てられていて、残りのスペースにかつて使われていた紡織機並べてある。その他に、始めての近代式潜水艦や、パターソン・コルト(リボルバー式銃)のコレクションがある。

パターソンの絹産業

パターソン市の紋章には桑の木を植える人の図柄が描かれている。養蚕業は絹に関連する産業の中で唯一パターソン市にない産業だそうで(桑を植えてみたが気候があわずに生育しなかった)、この市章の図柄には、蚕を育てるところから製品にするまでの全てを揃えた「シルクの町」を完結させるという意味が込められているという。
逆に言えばそれ以外の、製糸、染色、撚糸、紡績、機織を全て担っていたという自負が感じられる。パターソン博物館にはこうした一連の工程で実際に使われていた機械類が展示してあり、ここを見るだけで確かに絹製品が出来るまでの流れを追っていくことができる。

まず最初の展示は染色工程についてだ。と言っても、染色槽と柄杓があるだけである。

だが製品を考えてみると、色は、素材、デザインと並んで重要な要素のひとつである。この意味で、大消費地であり世界の流行の発信地でもあるニューヨーク市に近いというのはパターソンの利点である。マーケットに近く、顧客の好みの色や流行の色をいち早く製品に取り入れることが出来たであろう。
同時に、パターソンは、アメリカでもいち早く化学工業が発達したニュージャージー州にある。ニュージャージー州では今日でも石油化学工業や製薬業などが発達している。つまり生産の面から言っても、マーケットの求めに応じて様々な色合いを出すことの出来る染料を開発、入手できる環境が整っていたのである。

博物館には染め上がった糸も展示してある。写真ではうまく再現できていないが、それでも微妙な色合いの違いがわかるだろう。マーケットのニーズに応え得るだけの染色技術があったということは、パターソンの絹産業が栄えた理由のひとつに数えても良いだろう。

Winder(捲糸機)
染め上げた繊維を糸に撚りあげていく

Warper(整経機=縦糸巻き機)
撚りあげた糸を巻き取っていく

Jacquard(ジャカード紋織機)
上から木の板のような物がぶら下がっているが、これには穴を空けてあってそれに従って模様を織り上げていく。左手前に立てかけてあるのがそのカードである。


パターソン博物館で各種紡織機を見学した後、博物館とは通りを挟んで反対側に"PATERSON SILK MACHINERY EXCHANGE"と大書きされた建物を見つけた。現在は廃墟になっていて外観だけが残っているが、かつては紡織機を取り引きする会社の建物だったようだ。

壁面に取り扱い商品としてLOOMS(織機)と書いてあるのが読める。以下、WARPERS(整経機=縦糸巻き機), WINDERS(捲糸機), QUILLERS(?), COPPERS(?), JACQUARDS(ジャカード紋織機) & SUPPLIES(消耗品)と列記されている。

ある程度の産業集積があると、それにともなってこうした中古機械市場が形成される。


Union Works
博物館の隣、写真左手の建物は1890年に蒸気機関車の部品を製造する工場として建てられた。ところが1915年までにRogers Locomotive Worksは機関車の製造をやめてしまったため、1916年にシルク・リボンを作る織物工場に転換された。
今日では、the Evangelical Committee for Urban Ministriesの運営するthe Dawn Treader non-graded elementary schoolとして利用されている。

この道を手前の方に坂を登っていくと、大滝がある。


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