日本開国

ロード・アンランド州ニューポート市・ペリー提督記念碑

ニューポート市トーロ公園に立つマシュー・ペリーの銅像。

ロード・アンランド州は、本土よりも、沖合のロード島(ロード・アイランド)から発祥した。ロード島にたどり着いた移民たちはそこに漁業や海運の拠点を置き、やがてそれは「新しい港」ニューポート市として発展していく。湾の入り口を厄し外洋へ出やすいニューポートは、単に産業上の利点だけでなく、軍事上の重要性もあり、海軍基地がおかれた。20世紀に入ってからは海洋レジャーの拠点として注目され、つとヨットのアメリカズ・カップの拠点として知られる。 いずれにしても潮風の匂いが鼻の奥をくすぐるような根っからの港町なのである。
ボストンやニューヨークで成功したお金持ちが競ってこの地に巨大な別荘(マンション)を建てたものが、現在は町の観光資源となって一般観光客にも公開されているが、それはこの潮風の匂いに引かれてやって来た副次的なものに過ぎない。海への志向が、ニューポートの風土を決定付けているのである。
このようにニューポートを語っていくと、この地で生まれたマシュー・ペリーが、やがては黒船を率いて大西洋から喜望峰をめぐりインド洋を抜けてはるばる東洋の国・日本を目指したことも、何か因縁めいたものに思えてくる。

黒船の出発地をたどってもニューポートにはたどり着かない。既に書いたようにニューポートにも海軍の港はあるが、彼の黒船が出航したのはここではなく、ノースキャロライナ州のノーフォークである。
あるいは、黒船を日本へ送ることを政治的に決断したのはワシントンDCの連邦議会であり、おそらくペリー提督はホワイトハウスで大統領の国書を手交されたことであろう。すると、大統領国書を携えて外交官としての役目も任じていたペリー提督の門出は、この政治都市になるのであろうか。
となれば、私がニューポートを訪れる理由はただひとつ、この地でペリー提督が生まれ育ったという偶然とも思える事実に着目するしかない。そして彼が生まれ育った土地の風景から、なんとなく、はるか遠くの日本の砂浜を想像することができはしないか −− これは後世の歴史を知る者の特権として、ニューポートの町並みと、大海原と、浦賀の漁村の風景とをひとつのイメージとして結びつけることが許されるならばだが −−

はるばるニューポートに来て、小さな公園に立っているペリーの銅像を眺めてみる。

銅像の台座には、ペリーの功績がレリーフとなって記されている。日本開国はもちろん彼の功績の内のひとつであり、歴史的な一場面を見ることができる。レリーフでは、帽子を取り直立して威厳をただしているペリーの前に、日本人2人がお辞儀をしている。ペリーの横には、通訳だろうか、ひとりの日本人が手を出してお辞儀をする2人を紹介している様子が見える。また、直接対面しているこれらの人物とは別に奥に幕が引かれ、位の高い人物が臨席している。
レリーフの上には"TREATY WITH JAPAN 1854"と書かれ、1854年の日米和親条約の締結の場面であることを説明している。

灯籠とペリー提督の銅像との組み合わせが独特の雰囲気を醸し出している。灯籠には天保年間に徳川11代将軍家斉の墓前に奉納された由来が刻んであり、日本側がきちんと贈ったものではなさそうである。

トーロ公園内には日本の灯籠が置かれている。ニューポート歴史協会で公園までの道順を尋ねたときに、日本から贈られたモニュメントがあるからわかるという話だったが、おそらくこの灯籠のことを指していたのであろう。
トーロ公園の名前はこの灯籠にちなんだものかと早とちりしそうになるが、トーロ公園のトーロとは、ニューポートのユダヤ人教会(シナゴーク)の発展に貢献したアイザック・トーロ(Issac Touro ????-1783)とその息子たちアブラハム・トーロ、ユダ・トーロにちなむもので、次男のユダがこの土地を買って公園として提供したことがその最初である。トーロ公園の近くにはトーロ・シナゴークがあり、アメリカに残る最古のシナゴークとして国立公園サービスの管理する国の史跡になっている(現在もシナゴークとして使われている)。

灯籠の方には次のような銘が刻まれていて、その来歴を伺うことが出来る。


奉献上 石燈籠
東叡山
文恭院殿 尊前
天保十(2文字写真より判読できず)年閏正月睦日
下野国大四原坊
(1行写真より判読できず)
この銘文を読む限り、本来は文恭院殿なる人物(戒名)を供養するために寺院に献納されたものであることがわかるが、文恭院殿とは江戸幕府11代将軍徳川家斉の戒名に他ならない。東叡山とは東京上野の寛永寺の山号で、代々徳川将軍家の菩提寺であった。家斉は天保12年(1841年)正月30日に死去しているから、灯籠が奉納された時期とも一致する。将軍家にかかわる由緒ある灯籠なのである。
日米友好の記念としても、日本側がこういった一度奉納されたものをいわば奪い取ってアメリカに贈るということは考えられず、むしろ幕末・明治の価値観が混乱していた時期にアメリカ人の好事家が買取って東洋趣味として持ち帰り、ペリー提督の業績を聞き及んでここに寄贈したものだと考えるのが正しいように思われる。ニューポート市に別荘を構える金持ちの中には中国趣味で屋敷や庭園を造ってしまった人もいるので、日本趣味のアメリカ人の存在を想定するのは突飛なことでもない。
地元の歴史協会で案内を乞うた時には、日本から贈られたモニュメントがあるという言い方だったが、灯籠ひとつの来歴まで詳しく知っているとは思われないから、人々も自然とそのように思いこんでいるのだけのことであろう。
文化財としてどれくらいの価値があるのかは知らないが、ちょっとした発見をした気分である。

[1853年ペリー・黒船来航:横須賀市久里浜・ペリー上陸記念碑]


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