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日本開国

ペリー公園:北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

横須賀市久里浜

記念碑の裏面に「嘉永6年6月9日上陸」とあるのは旧暦(太陰暦)のことで、新暦(太陽暦)にすると7月14日に相当することから、7月14日がペリー提督の上陸記念日となっている。
ペリーが上陸した48年後の明治34年(1901年)にこの記念碑が建立された。なぜ50周年という切りの良い年に建立しなかったのか、なぜ明治34年というタイミングなのか、いささか謎が残る。何らかの裏の事情が隠されているようである。

手前にある松が、金子松、ろぢあーず松と呼ばれるそれぞれ日米協会会長の子爵金子堅太郎、アメリカ海軍ろぢあーず少将手が記念植樹した。記念碑の向こうに見える白い建物は、博物館で、黒船の模型の展示や視聴覚施設などがあって黒船来航を解説している。

日米友好協会会長としての子爵金子堅太郎の名前は、アメリカ、ニュージャージー州ウエスト・オレンジのエジソン研究所跡に送られた燈籠の説明書きにも見える。[ウエストオレンジ・エジソン研究所跡]

記念碑の横には松が2本植わっている。松の根本には小さな標石が埋められていて、それぞれ米友協会(日米友好協会)会長の子爵金子堅太郎とアメリカ海軍のろぢあーす少将 Rear Admiral Roders が手ずから植えたことが記されている。
ペリー上陸記念碑の文字を伊藤博文が揮毫し、記念植樹を金子堅太郎がしたということは、非常に興味深い。
金子堅太郎は明治4年の岩倉使節団にともなって渡米し、ハーバード大学に留学し法学を修める。その時の同窓にアメリカ大統領となるセオドア・ルーズベルトがいたことが、彼個人だけでなく、後に日本の外交に大きな意味を持つことになる。日米友好協会の会長を務めるなど、明治政府の中でも親米家として知られる。こうした日米友好を記念する場に彼の名前が見えるのはしごく当然である。
金子堅太郎と伊藤博文との関係は、金子が帰国後の明治18年に総理大臣伊藤博文の秘書官となり、法律家として伊藤博文が取り組んでいた明治憲法の草案(夏島草案)作りにもかかわることから始まる。このことで金子は伊藤博文の懐刀としての立場を獲得する。
だが、ここペリー上陸記念という親米行事の場面にふたりの名前が登場するのには、親米家とか明治政府の要人として出席したという意味以上に、もっと大きな政治の動きを感じることができる。
記念碑が建てられた3年後の明治37年、対米外交の場に再びふたりの名前が登場する。この年、日本はロシアとの間に戦争を始める。日露戦争である。この戦争に対しては、当時の政治家も軍人も軍事的な勝利を確信し得ず、いかにして講和に持ち込むかという政略に腐心したと言われている。明治政府の指導者層には、双方に直接的な利害を持たず講和を仲介してくれる大国として−ロシアはフランス・プロシアと三国同盟を結び、日本はイギリスと日英同盟を結んでいて、ヨーロッパの大国はどちらかの陣営に分かれていたために−当初からアメリカが念頭にあったと言われる。伊藤博文は、日露戦争開始にあたり金子を呼び、アメリカに渡り、親日的な世論の喚起し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトへの講和の仲介の依頼するという役割を依頼する。歴史では、この金子のアメリカでの工作が日露戦争の講和に当たっての外交的な成果に結びつくことになる。
伊藤博文が金子堅太郎に渡米・親日工作を依頼する場面は、ひとつの見せ場になっていて、この外交工作の重さに逡巡する金子の自宅に大正皇后陛下が自ら訪れお言葉を下され、それで意を決して渡米したというエピソードが続く。
話を戻すと、ペリー上陸記念碑に伊藤博文と金子堅太郎という日米外交の重要性を知る一組の政府要人の名前が出てくるのは、単なる偶然とは思えないものがある。傍証を挙げよう。千歳と笠置という後に日露戦争で活躍する二等巡洋艦が明治31年にアメリカの造船所で完成するが、この両艦が(当時の造船先進国のイギリスではなく)アメリカに発注されたのは、日系移民に仕事を奪われることを恐れ反日感情を抱きやすいアメリカの労働者に配慮して彼らに仕事を与えることで少しでも親日的な世論を醸し出したかった意図も含まれていたという(司馬遼太郎『坂の上の雲』文庫版第2巻287−288ページ)。日露戦争は将来必至の戦争として、何年も前から周到な用意がなされていたのである。ペリー上陸記念碑も、将来の日露戦争を見据えた日米友好の雰囲気を盛り立てる小道具のひとつとして用いられていたと考えるのは単なる思いつきではなく、そうであればこそ、伊藤と金子のふたりの名前が出てくるのも納得がいく。
また、ロシアとの戦争に向けて風雲急を告げる情勢にあって、日米友好を示すのは外交上の急務であり、あと2年が待てなかったと考えると、48周年記念という中途半端な年の石碑建立にも説明がつくと思うが、どうだろうか。

公園の片隅には、ペリーの生まれ故郷であるアメリカ・ロードアイランド州ニューポート市から贈られた石が置かれている。何の変哲もない石で、由来を記したプレートがなければ何でここに石が置かれているのかわからないくらいである。
プレートには「マシューC、ペリー准将の出生地である米国ロード アイランド州ニューポート市からの記念石」と記されている。昭和62年7月14日(ペリー上陸記念日)に公園内のペリー准将記念館の開館を記念して、在日米海軍司令官とニューポート市長から寄贈されたものである。

[ニューポート市のペリー記念碑]


[アメリカ・ロードアイランド州ニューポート市]


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