京城市道路元標(ソウル市道路元標)


ソウル市、太平路と鐘路との交差点、有名な李瞬臣将軍像が立っているそば(東側)に碑閣と呼ばれる楼閣が建っている。その足下に「道路元標」と朝鮮半島各地への距離が刻まれた石碑がある。

道路元標は近代的な国道網の各都市に於ける基準点として設けられたもので、当時日本の植民地だった朝鮮半島では朝鮮総督府が大正3年4月11日に告示第135号として京城(ソウル市)他10都市の道路元標の位置を定めている。
日本本土でも明治期に各市町村に里程元標が設置され、大正9年の道路法施行にあわせて道路元標が設置された。道路元標について言えば朝鮮半島の方が日本本土よりも先行していたわけで、国土計画の実験的な意味合いや植民地官僚の選民的支配者としての意気込みがあったのかもしれない。
道路元標はそれぞれの都市において道路の起点・終点となるべき場所で、必然と道路網の中心をなし、都市計画とも深く関わっている。朝鮮総督府の告示では、市街地における一等、二等道路の路線と同時に告示されているのが特徴である。
度方距自元
十向離本標
三南五標真
分六五中位
西九米心置




世宗路
幅員100メートル、10車線の大通りである。写真中央、中央分離帯の所に李舜臣将軍の銅像が立っているが、もともとはこの位置に道路元標があった。

ところで、この道路元標の台座には気になる文言が刻まれている。もともとの位置は現在位置から「距離55米、方向は南から69度13分西(に振った場所)」だと言うのである。
大正3年4月11日朝鮮総督府告示第135号によると、元標の所在は光化門通黄土〓広場(〓は「山」+「見」)になっている。このもともとの位置は、世宗路のど真ん中、現在の李舜臣将軍の銅像が建っている位置に該当するが、銅像を建てる際に邪魔になり現在の場所に移されたという(鐘路の歴史(韓国語))。台座の記述はこの時に追加して刻まれたものだろう。
李舜臣は豊臣秀吉の侵略から国を守った救国の将軍として、民族のアイデンティティ、愛国心鼓舞の象徴的存在である。その銅像が首都の目抜き通りの世宗路に建てられるのはわかるが、良くぞ、戦前日本植民地時代の遺構である道路元標を移設保存し、さらには元の位置まで記録に留めて置いてくれたものだ。

世宗路は、朝鮮王朝の宮殿である景福宮の宮殿前広場という意味合いがある。日本は植民地支配にあたって景福宮の正面に朝鮮総督府のビルディングを建設し、広場と宮殿を分断してしまったばかりか、逆に総督府前広場にしてしまったのである。壮大な建物は広場がないと映えない。当時、光化門通と呼ばれたこの広場に建てば否が応でも植民地総督府の威光を思い知らされるようになっていたのである。
朝鮮総督府の建物は戦後長らく国立博物館として利用されていたが、1995年をもって取り壊され、李氏朝鮮当時の景観を取り戻している。

東面にはソウル市から南の諸都市への距離が刻まれている。
裏面(北面)は文字が削られている。大日本帝国や朝鮮総督府といった植民地支配を思い起こさせる文言が刻まれていたことだろう。
西面にはソウル市から北の諸都市への距離が刻まれている。
左下には弾痕のような欠けた跡が認められる。

2000年8月取材

[朝鮮半島に現存する道路元標・韓国の道路元標]

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