和銅元年春正月乙巳。《乙未朔十一》武藏國秩父郡獻和銅
和銅元年七月廿六日丙辰。《廿六》令近江國鑄銅錢。
和銅元年八月十日(庚申朔)八月己巳。《庚申朔十》始行銅錢。
天平14年2月5日に恭仁京から近江国甲賀郡へ至る道を建設したという記事が出てから、紫香楽宮への行幸の記事が頻出する。この間、平城京の建物を恭仁京に移転させ、同時に難波宮に行幸し遷都を勅するなど、都の定まらない状態が続く。天平15年10月16日に東海・東山・北陸の調庸を紫香楽宮に運ばせるように命じる記事があり、盧舍那佛像(大仏)を作る構想が明らかにされる。紫香楽宮の最盛期は天平16年11月13日、聖武天皇の親臨を得て盧舍那佛像の骨柱を立てる儀式が行なわれたあたりで、年が明けて天平17年の正月には大楯槍が紫香楽宮の御門に立てられて、さながら遷都したようであった。だが、この頃から山火事の記事が増え始め、紫香楽遷都に対して不穏な雰囲気が漂い始める。天平17年5月6日、ついに聖武天皇は紫香楽宮を出て恭仁京に戻るが、その時百姓から万歳の声が挙がったという。ちなみにこの恭仁京帰還は地震の続く中で行なわれていて不気味な感じに包まれていたことだろう。5月11日、天皇はついに平城京に戻るが、すでに紫香楽宮は荒廃していたことが記事に見える。
紫香楽宮に関する続日本紀の主な記事(行幸は帰還の記事を省略)
天平十四年二月五日庚辰。《五》(中略)是日。始開恭仁京東北道。通近江國甲賀郡。
天平十四年八月廿七日己亥。《廿七》行幸紫香樂宮。
天平十四年十二月廿九日庚子。《廿九》行幸紫香樂宮。
天平十五年四月三日(庚午朔)夏四月壬申。《庚午朔三》行幸紫香樂。
天平十五年七月廿六日癸亥。《廿六》行幸紫香樂宮。
天平十五年十月十六日壬午。《十六》東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。
天平十五年十月十九日乙酉。《十九》皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。
天平十五年十二月廿六日辛夘。《廿六》(中略)初壞平城大極殿并歩廊。遷造於恭仁宮四年。於■其功纔畢矣。用度所費不可勝計。至是更造紫香樂宮。仍停恭仁宮造作焉。
天平十六年四月廿三日丙辰。《廿三》以始營紫香樂宮。百官未成。
天平十六年十一月十三日(庚申朔)十一月壬申。《庚申朔十三》甲賀寺始建盧舍那佛像體骨柱。天皇親臨。手引其繩。于時種々樂共作。四大寺衆僧僉集。襯施各有差。
天平十七年一月朔日(己未朔)十七年春正月己未朔。廢朝。乍遷新京。伐山開地以造宮室。垣牆未成。繞以帷帳。令兵部卿從四位上大伴宿祢牛養。衛門督從四位下佐伯宿祢常人樹大楯槍。
天平十七年五月六日癸亥。《六》地震。車駕到恭仁京泉橋。于時。百姓遥望車駕拜謁道左。共稱万歳。是日。到恭仁宮。
天平十七年五月十一日戊辰。《十一》奉幣帛於諸陵。是時甲賀宮空而無人。盜賊充斥。火亦未滅。仍遣諸司及衛門衛士等令収官物。是日行幸平城。以中宮院爲御在所。舊皇后宮爲宮寺也。諸司百官各歸本曹。
天平勝宝元年二月廿二日天平廿一年二月丁巳。《廿二》陸奧國始貢黄金。於是。奉幣以告畿内七道諸社。
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