見えてきた都−紫香楽宮

(写真:国道422号から伊賀上野の盆地を見下ろす)

信楽へは伊賀上野から国道422号で入った。国道とは名ばかりで、車がすれ違うのがやっと程の細い山道を登り詰め、山地に迷い込むように進む。山と山の谷間にわずかな平地を求めた隠し田のような耕地を見て、こぢんまりとまとまった諏訪集落内に入り込む。集落の外れに小学校がある。スクールバスを運行しているようだが、山の中にぽつりとある小学校は行き帰りが大変そうだ。谷筋を違えて丸柱の集落に入る。ここで左折して桜峠を越えると次第に焼き物の窯元の看板が増えてくる。突如として平地が開けた。信楽の盆地に出たのである。国道も307号に合流した。

山懐に分け入ったところにはたと平地が広がっているという点で、信楽は隠れ里のような雰囲気をもっている。狭小なその盆地は、距離的には近くにありながら、奈良・平城の都とは往来が断絶した感がある。木津川の水系からも外れ、琵琶湖畔の要衝・大津と東国への関所にあたる加太とを結ぶ古代の大道からも外れ、山の中に置き忘れられたような雰囲気がある。
明治以降の鉄道網もこの往古からの交通路を踏襲した。加太から木津川の河谷へと抜ける関西本線、琵琶湖畔の東海道本線、両者を短絡するように柘植と草津を結ぶ草津線が、この地方の交通網の骨格を成し、それに対して、信楽へ伸びる旧国鉄の信楽線は盲腸のように垂れ下がり、今や信楽高原鉄道という第3セクターとしてどうにか存続している。
国道網にしても同様で、名阪を最短距離で結ぶ国道25号、亀山から鈴鹿峠を越えて草津へ抜ける国道1号という堂々たる幹線国道に囲まれた網の隙間からこぼれ落ちてしまっている。国道307号とか422号と言った、大番の、いかにも後々になって追加指定したというような国道がようやく山中の盆地まで延びてきているのがやっとである。
紫香楽は元来、交通不便な場所である。

このような辺鄙な山里が、8世紀中頃、聖武天皇が離宮を造営しここに留まって大仏の建立を発願したことによって、歴史に名前を残すことになった。離宮は紫香楽宮と名付けられた。古代の一時期において、朝廷が置かれ、日本国の都となったのである。
聖武天皇が紫香楽に宮を作ろうとしたとき、まず最初にしたことは、その当時遷都していた恭仁京から道を通すことだった。天平14年2月「始めて恭仁京の東北道を開き、近江国甲賀郡に通ぜしむ」と続日本紀にある。


紫香楽宮(甲賀宮)遷都は聖武天皇の気まぐれの結果のようなところがあり、続日本紀などの記述から、行幸の途中という形で遷都の詔がないままに天皇が滞在し続け、慌てて朝廷儀式を紫香楽で執り行って律令国家の体制を取り繕った、というのが実際のところで、都としての実体はなかったと考えられてきた(都の定義にもよるが、天智天皇の大津遷都や、同じ聖武天皇でも恭仁京遷都とは、やはり同格には論ずることが出来ないところがある)。
一方で、当時の国家統合の一大事業であった大仏建立の詔がこの地で出されたことから、天平時代の政治、宗教を理解する上で重要な場所であることに違いはない。だとすれば、そのような重要な決定が紫香楽の地でなされてそれが結果として大仏建立まで効力を持ち得た、その遷都の奇怪さそのものが当時の政治状況や聖武天皇の精神世界を反映してきたという考えも成り立つ。
都のようであって、きちんとした都の体裁を整えていない。その曖昧なところが、紫香楽宮の最大の謎であり特徴でもあった。

ところが、2000年の秋に朝廷の主要な建物のひとつである朝堂跡と見られる遺跡と、都大路の一部と見られる橋脚が発掘されたことで、従来の御座所的なイメージが一新され、本格的な都の造営計画があったことが明らかになった。


宮町遺跡

(紫香楽宮推定地)朝堂跡

新たに発掘された新町遺跡は、国道307号から別れて5分ほど走ったところの、奥まった狭い平地にある。2キロ四方といったところだろうか。山あいの信楽にあっては貴重な平野である。それだけに、水田として耕作されてしまってなかなか遺跡が見つからなかったらしい。
これはとてもおもしろいことで、甲賀寺跡は小高い丘だったが故に人々の間に遺跡として伝えられ、平地にあった都の跡はいつしか耕作地へと還元されていった。奈良の平城京を見ていても、所々にほぼ原形を留めて残る古墳と、水田や宅地になってしまっている都の跡を比べてしまう。
もっとも、以前から圃場整備の際などに木簡が出土していて、紫香楽宮の中心地らしいという推測があって今回の建物跡の発見につながったと言うから、水田の下の粘土層が真空パックの役割をして木簡を保存して置いてくれたことには感謝しなければならない。平城京で見つかる木簡にも同じことが言える。


新宮神社遺跡

新宮神社遺跡は、第2名神高速道路建設に伴って発掘された都大路の橋脚跡。紫香楽宮が都としての都市計画を持っていたことを示す重要な発見である。
高速道路の建設によって破壊されてしまうのは残念だが、道を付けてから作った紫香楽宮が時を経て道の建設によって掘り起こされるとは、因縁めいたものを感じてしまう。

第2名神建設地にあるのは新宮神社遺跡で、朝堂と推定される建物跡が見つかった新町遺跡は破壊を免れるが、今後どのように保存整備されていくのかはよくわからない。


[(1)宮町遺跡][▼(2)史跡紫香楽宮跡][▼(3)地形図]

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