銭司和同開珎鋳造遺跡

京都府加茂町、甕原離宮(のち聖武天皇が遷都し、恭仁京)跡から木津川を車で5分ほども遡ると、平野が終わり次第に河谷が狭まる。平らな土地はないが、木津川へと緩やかに落ちていく斜面では茶が栽培されていて、宇治茶の名前がかぶせられて出荷されていく[参考]。お茶の栽培で実入りがいいのだろうか、斜面にへばりつくように立っている家々は、かなりの門構えをしている。こうした土地に、銭司(ぜず)という地名が残っている。
奈良時代、鋳銭司(すぜんず)と呼ばれる官職が設けられ国家朝廷による鋳造を担った。銭司の地名はこの官名に由来するもので、この地で当時鋳銭が行なわれていたことを伝えている。実際、銭司には鋳銭遺跡があり、和同開珎銀・銅銭十数枚が出土している他、鞴(ふいご)などの破片も見つかっている(加茂町教育委員会・現地立て看板より)


銭司のバス停と集落。バス停の隣には「鋳銭之遺跡」碑が立っている。

1988年、奈良市の平城京二条大路跡から出土した7万4000点という大量の木簡群(二条大路木簡)は当時の社会状況を伝えてくれる貴重な史料でこの発見によって奈良時代初期の頃の新しい事実が次々と明らかにされたが、この木簡群の中に「岡田焼炭所(おかだのやきすみどころ)」と記したものがあり、この「岡田焼炭所」が銭司の周辺を指すと考えられている(講談社日本の歴史4『平城京と木簡の世紀』p.254)。銭司の地が、鋳銭に必要な燃料の炭の産地だったことがわかる。
恭仁京造営の際に木を切り出して木津川を流して運んだということなので、炭焼きとあわせて、奈良時代には木津川沿いの山々は禿げ山だったかもしれない。

続日本紀を紐解くと、和銅元年(708年)に和同開珎が鋳造される以前、文武天皇3年(699年)に鋳銭司が設けられている。律令の制定、壬申の乱を経て、天皇を中心とした国家権力の確立が進むとともに、国家権力に裏打ちされた通貨が作られようとしていた時期である。この時鋳造された通貨はその後飛鳥で富本銭の大規模な鋳造工房が発掘されたことによって、富本銭であったと考えられるようにあった。もっとも本格的に流通し始めた通貨は和同開珎が最初であると考えられており、その意味で「日本最初の通貨」という名誉を保っている。
和同開珎については、埼玉県秩父地方から産出した和銅を記念してそれを利用して作られたと一般には言われているが、最近の研究結果では、通貨鋳造という国家の一大事業を営むに当たってそれが天皇の治世の恩寵であるという意味づけが必要で、そのための瑞兆として和銅発見が演出され、音をあわせた和同に改元されたという説が定説となっている(講談社日本の歴史4『平城京と木簡の世紀』)。和銅が見つかったといいながら、銭を鋳造していることも和銅発見が儀式的な意味合いだったことの傍証になる。つまり通貨を鋳造するということがまず最初にありきだったのである。秩父地方で和銅が見つかるか見つからないかという偶然が歴史を左右したのではなく、律令制が着々と整えられていく一環として通貨鋳造は最初から政治日程に取り上げられていて、後はそのタイミングを待つだけだったのである(最初の富本銭鋳造も遣唐使派遣にあわせて行なわれたのではないかという説がある)。
この頃は、貨幣の流通自体が未発達だったのに加えて、銀銭、銅銭が入り混じって流通していて、政策の面でも、銀銭の流通を廃止したり(683年)、銅銭の和同開珎と合わせて和同銀銭を鋳造したり(和同元年、708年)、再度銀銭の流通を禁じる(和同2年・3年、709年・710年の2度詔勅が出ている)など、混乱していた。
また国家権力が行き届かず、私鋳もまま見られたようで、私鋳の禁止令が何度も出されている。

和同開珎の鋳造遺跡としては、京都府加茂町の銭司の他にも、山口県山口市には鋳銭司(すぜんず)という地名が残り周防鋳銭司の跡が見つかっている。ちかくの長登銅山からは鋳銭司へ銅を運んだことを示す木簡が見つかっている。


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