History of US Highway System

目次

アメリカのハイウェイ網の歴史

アメリカの道路政策とハイウェイ網の成立史を理解するには、(1)州と連邦政府の関わり合い、(2)ナショナル(全米的)な道路網の形成、(3)有料道路の3つの観点が欠かせない。

まず、州と連邦政府との関わりだが、連邦制をとるアメリカ合衆国では内政に属する道路行政は基本的に州の管轄とされている。
その一方で、連邦政府の立場からは、国土を統一して国の隅々まで国家の政策を推し進めていくための手段として全国的な道路網が必要になる。実際には、連邦政府はその権限とされた郵便事業(郵便を配達するために道路が必要だという主張で、合衆国憲法第8条7項に連邦議会の権限として郵便局と郵便道路の建設が明記されている)と国防(軍用道路、また戦時中の輸送体制確立のための道路)を大義名分として、州の道路建設に補助金を出すことによって道路行政にも口を出そうとしてきた。興味深いのは、連邦の行政組織として1893年に道路調査室が設けられて以来ニューディール政策が行なわれて道路が公共事業として注目される1939年まで、農務省が連邦の道路行政の担当官庁だったことである。これは道路が開拓のための道路だったというアメリカの建国の歴史に由来するとともに、荒野に点在する農村に道路を通して人々が孤絶しないようにすることがアメリカにとって重要な国土政策であったことを示している。
一方の州側も、連邦からの補助金を必要としながらも、連邦に対して道路行政の主導権を維持しようとしてきた。その最たるものが州の道路行政担当官の調整機関であるAASHO(1914年創設)で、道路の規格の制定やハイウェイの路線認定の主体となってきた。
こうした州と連邦との権限争いは、他の政策分野においても主要な論点となっていて、今も変わるところがない。アメリカの道路行政史は州と連邦との関わりを抜きにしては語ることが出来ない。

アメリカにおいて全国的な道路網という観点が出てきたのは、20世紀初頭に自動車が普及し始めてからである。それ以前の道路は、例えば荒野の中を幌馬車が行く西部劇の一場面を思い出してもらえればわかりやすいが、開拓者や商人、そして、故郷を追われて居留地へ向かうインディアンが通った踏み分け道(トレイル)であった。メリーランド州のチェサピーク湾岸からオハイオ川までを結ぶカンバーランド道路は、「国家の道」The National Road と呼ばれているが、東海岸から中西部へのゲートウェイを果たしただけで、全国的な道路網ではなかった。

自動車の普及と性能向上により長距離の移動が増えると、道路の改良と全国的な道路網の整備を求める声が高まった。
1895年にアメリカで最初のガソリン自動車発売され、1908年にフォードT型が大量生産されるようになると、アメリカは自動車の時代を迎えた。1902年にシカゴでAAA(American Automobile Association)が結成され、議会や世論に道路整備を呼びかけるとともに、1905年には会員に無料で地図を配りはじめるというサービスをはじめた。

リンカーン・ハイウェイのシンボルマーク。赤・白・青のトリコロールにイニシャルのLをアレンジしたマークは人々に親しまれた。それぞれのトレイル協会が独自にマークを決めてルート上に掲出して、旅行者の便宜をはかった。
【写真:ニュージャージー州内にて。この標識は最近建てられたものである】

民間で協会を組織し寄付を募って、ルートを選んでトレイル(街道)として仕立てるということも盛んに行なわれた。標識を整備したり地図を配布してルートの案内をすると同時に、道路改良の模範として自ら道路整備も行なった。中にはガソリンスタンドが宣伝目的でトレイルを仕立てるということもあり、1924年の時点で100以上の組織が活動し250のトレイルが指定されていたという。それぞれの自発的な活動のために、州を跨いだ大陸横断道路から地域的なものまでスケールもばらばらで、同じ道が複数のトレイルに指定されるということもあった。
民間のトレイル協会の中で最も有名で規模も大きかったのが、1913年に創設されたリンカーン・ハイウェイ協会である。協会は、ニューヨーク市からサンフランシスコまでの大陸横断道路としてリンカーン・ハイウェイを策定し、ナショナルな道路網のさきがけとなった。1904年にはイリノイ州でコンクリート舗装を施し、自ら率先してリンカーン・ハイウェイを模範的な道路として整備した。今日リンカーン・ハイウェイはアメリカの「旧街道」として人気があり、趣味として昔のルートをたどる人も多い。

だが、行政側の動きは物足りないものだった。そもそも、各州が独自に道路行政を行ない、連邦政府は補助金を出すことによって希望どおりの道路を整備するように各州に促すという仕組みでは、全国的な、ナショナルな視点からの一体的な道路網というのはなかなか出来にくい。
1916年に連邦補助法が成立するがこの法律では州を越えて連邦補助道路同士を接続することを義務づけていなかったために、連邦の補助金で整備された道路が細切れ状態となってしまった。そのため「補助金をばらまいただけ」と批判された。
この反省を受けて1921年の連邦補助法では、各州の道路総延長の7%までを連邦補助道路として認めるとともに、連邦補助道路の7分の3(各州の道路総延長の3%)を州と州とを結ぶ道路に振り分けさらにここに補助金の60%までを集中させることが出来るようにした。州と州とを結ぶ道路に予算を集中的に配分したいという意思は読みとれるが、各州の道路整備を漸増させていけばやがて州境から州境まで達する道路が出来て結果として全国的な道路網が出来上がるという発想であり、上からの全国的な道路網を一体的に整備するという考えはなかった。実際、西部などの面積の大きな州では州際に振り向けられる3%の連邦補助道路だけではとうてい州の端から端まで道路を整備することが出来なかった。

一方で、国防の観点から全国的な道路網整備の要望も高まった。1914年から始まった第一次世界大戦はアメリカにとっては対岸の火事であったが、ヨーロッパに代わってアメリカが世界の工場として生産活動を増大させることになり、そのために当時の主要な輸送手段であった鉄道の輸送力が限界に達してしまった。こうした国内の輸送状況に危機感を持ったのが陸軍で、1919年に自動車部隊を編成してワシントンDCからサンフランシスコまでリンカーン・ハイウェイを使って大陸横断の演習を行なった。この時の自動車部隊は、行く先々で道路改良運動を盛り上げる役割を果たした。後にインターステイト・ハイウェイ網を作り上げたアイゼウハワー大統領が中佐(Lieutenant Colonel)として参加していたのは、奇遇である。
1920年にはバンクヘッド・ハイウェイをたどる第2次大陸横断自動車部隊が派遣されている。
資料:0マイルストーンワシントンDCのホワイトハウス前には0マイルストーンが置かれているが、これは道路の起点というよりは、むしろこの2回の自動車部隊が出発した起点を記念するモニュメントである。自動車部隊の出発点となった旨が0マイルストーンに刻んである。 
1922年には、陸軍のパーシングが戦時下における最重要道路を示した地図(パーシング・マップ)を制作している。

資料:路線一覧こうした道路網整備の機運を受けて、1925年にUSハイウェイ網の策定された。連邦農務省とAASHOの合同委員会が出したこの全国的な道路網は、初めて全国的な道路体系を示した画期的なものであった。それまで民間の各種トレイル協会が独自に整備したトレイル(街道)を、数字によるルートの識別に置き換えたという意味でも重要な出来事となった。

1941年12月8日アメリカ・ハワイ真珠湾が日本軍の攻撃を受けると、制海権の維持が危ぶまれたアメリカは、日本軍がアラスカに侵攻してきたときに備えて、カナダ領内を通りアメリカ本土とアラスカを結ぶ自動車道の建設を行なう。3月にカナダとの調整がつき、年内の11月には総延長2200キロメートルの道路が完成した。また未完成に終わったがパナマ運河防衛のために中米の道路整備も行なおうとした。
戦時下ではこうした軍用道路の整備が行なわれる一方で、道路予算は削減されて1944年と1945年には正規の連邦補助金額は0となった。それでいて戦時動員のため過積載トラックが我が物顔で走るために、道路の疲弊を招いてしまった。

1944年、また太平洋での戦争は続いていたが、アメリカは「戦後」に向けての準備を着々と進めていた。道路行政についていえば、この年、連邦ハイウェイ補助法が成立して、インターステイト・ハイウェイの建設を承認する。これが現在のインターステイト・ハイウェイ網となる。以後AASHO、各州、陸軍などと計画路線について調整が進められことになるが、この法律では具体的な予算措置は盛り込まれておらず、このままでは画餅に帰したままであった。
インターステイト・ハイウェイは当時のアメリカが抱える道路問題を解決すべく計画された。
そのひとつが、大戦中から言われていた国防のための道路網の整備である。左の写真は、1950年代にフィラデルフィア市の近郊で見られた有事の際の規制予告である。「フィラデルフィアが敵襲にあった場合には民兵と軍用車両を除いて通行禁止」との旨書いてある。
アメリカの1950年代は、第二次世界大戦後の開放感とは裏腹に、準戦時体制だったことがわかる。インターステイト・ハイウェイ網は戦前戦中に策定された国防道路計画を引き継いだが、それは単に大規模な事業の持つ「惰性」でなくて、当時の時代背景そのものが真剣に国防のための道路を求めていたことを理解しなければならない。
出典:William Kaszynski, "The American Highway", McFarland, 2000

もうひとつの問題点が、相変わらず州毎にばらばらな道路政策、とりわけ道路交通に関する規制を統一することであった。この問題は、大戦中に顕在化し、トラックの総重量、軸重、車両長などに関する規制が州毎に異なっていたために全国的な物資輸送の際に不経済が生じていた。
例えば、左の地図は1956年時点でのトラックの車両長に関する州別の規制を示したものである。
最短の45フィートからユタ州の無規制まで州毎にばらばらなことがわかるが、この地図は灰色の網掛がされた中部諸州の規制を問題にしている。ミネソタ州からミシシッピ州にかけて45フィートの規制の「帯」が国土を分断しているために、東海岸と西海岸とを行き来するトラックは最低限の45フィートに合わせざるを得ない。こうした弊害を皮肉って、「バルカン主義(州毎にバラバラなこと)がはびこっている」という見出しが付いている。
この地図はアメリカの自動車業界誌"Automotive Industries"の1956年12月1日号に掲載されているもので、同号でアイゼンハワーの連邦補助ハイウェイ法成立を受けてインターステイト・ハイウェイの効用を様々な角度から説いているなかのひとつに全国レベルでの一貫した自動車交通の確立があげられている。当時、統一した道路の規格と交通規制が産業界から望まれていたことがわかる。
出典:Automotive Industries, December 1, 1956, p.103

アイゼンハワーが創設したインターステイツ網
今日アメリカの全国的な道路網の基幹をなしている。
1990年に正式にアイゼンハワー・インターステイト・システムと命名されて、この標識をあちらこちらで見かけることができる。マークとなっている5つ星は陸軍の将軍でもあった彼の階級章に由来している。
【写真:マサチューセッツ州にて、2001年6月撮影】

インターステイト・ハイウェイ網は単に全国に道路を整備するのではなく、こうした州毎に違う規制を統一して、全国的な道路交通・道路輸送を確立するための道路という明確な目的を持っていた。言い換えるならば、アメリカにおいてナショナルな道路網というのはインターステイト・ハイウェイ網の完成をもって初めて実現するのである。
実際にインターステイト・ハイウェイの建設が本格化するのは、1956年に連邦補助ハイウェイ法(Federal-Aid Highway Act of 1956)が成立してからである。この法律は道路利用者が支払った連邦への税金を全額道路整備に振り向けることを定めていて、インターステイト・ハイウェイ網建設の財源的な裏付けをしたことで評価されている。だが、同様に道路利用者が支払う州税については1934年のヘイゲン・カートライト法で道路整備のための目的税化を求めていて(目的税化しない州に対しては、道路整備のための連邦補助を取りやめる)、ようやく連邦レベルでの目的税化がなされたことになる。

[アメリカの有料道路について]に続く



参考文献
アメリカ連邦交通省道路局編、別所正彦、河合恭平訳『アメリカ道路史』原書房、1981年
"Automotive Industries", December 1, 1956
Mark H. Rose, "Interstate: Express Highway Politics, 1939-1989", The University of Tennessee Press: Knoxville, 1990(Revised Ed)
Jamie Jensen Eds., "Road Trip USA", Avalon Travel Publishing, 1999
William Kaszynski, "The American Highway", McFarland, 2000


[年表][アメリカの吊り橋]

[アメリカの道路ホームページに戻る]

お問い合わせ(メール):TTS
スパム対策のため最後にアンダーバー"_"が余計に付いています。
お手数ですが、jpの後の"_"を削除して送信ください。

(C) TTS 1997-2002, All rights reserved