XB-70 超音速戦略爆撃機(試作機)ヴァルキリー

私がライト・パターソン空軍基地アメリカ空軍博物館を訪れたとき、ヴァルキリーは通常の展示ハンガー(格納庫)ではなく、すこし離れたところにある開発研究機を集めたハンガー(R&Dハンガー)に移されていた。ひととおり見終わってヴァルキリーを見つけることのできなかった私は、インフォメーション・デスクの人に尋ねたのだが、「ヴァルキリー」の名前を口にした途端に「にやり‥‥」と笑った係の人の表情が印象に残っている。確かに、悲劇のヒロインとして航空機ファンの間では人気があり、ここにしかない機体だけれども、やっぱり多いんですかね。ヴァルキリーが目当ての人。

R&Dハンガーに展示されている機体はジェットエンジンに翼をちょこんと付けただけのような矮小なものが多いので直接比較の対象にはならないかもしれないが、ヴァルキリーの絶対的な大きさは見て取れるであろう。

1960年代に登場した超音速大型爆撃機B-70 ヴァルキリーは、試作機(XB-70)が2機しか製造されなかった上に、そのうちの1機が空中接触事故を起こして大破・墜落してしまうと言う悲劇に彩られている。
巡航速度マッハ3(音速の3倍)、最高速度マッハ3.1という圧倒的な性能を誇りながら、ついに戦略爆撃機としての任務に就くことはなかった。いや、もっと正確に言うならば戦略爆撃機としての試作機ですらなく、そのひとつ前段階の、速度マッハ3で巡航できる爆撃機タイプの試作機でしかなかった。アメリカ空軍博物館の解説にも「兵装なし」と記されている。

1950年代末、大陸間弾道ミサイルと地対空ミサイルの開発が進むにつれて、戦略思想上、戦略爆撃機の優位性は急速に失われていった。
まず、地対空ミサイルの開発は戦略爆撃機による敵地上空への侵入を困難にした。航空機による爆撃が絶対的な優位性を保ち得ない以上、抑止力としての核の戦略は成り立たなくなる。
一方で、大陸間弾道ミサイルならば打ちっ放しで済むし、同時に何発もの核弾頭を敵地に送り込むことができる。また、1980年代にレーガン政権がスターウォーズ計画を打ち出したが、飛来するミサイルを打ち落とすということは長い間不可能に近いことだと思われていた。大陸間弾道ミサイルを途中で打ち落とすことが不可能だからこそ、一発でも核ミサイルを発射すればその帰結は全面的な報復核攻撃となり、勝者のない核戦争に突入してしまう。核抑止の思想はここに宿り、戦略としての核が初めて意味を持つようになる。1958年のソ連のスプートニク号打ち上げは核戦略が、大陸間弾道ミサイルを前提として成り立つ時代に突入したことを告げていた。
地対空ミサイルの開発によって戦略爆撃機の優位性が失われる一方で、大陸間弾道ミサイルの開発が核爆弾の運搬手段の役割を戦略爆撃機に取って代わろうとしていたのである。

これが1950年代の終わりから1960年代のはじめにかけての核戦略をめぐる軍事的状況の変化であり、ちょうどB-36がその任を退き、B-52が戦略爆撃機として登場した頃に当たった。アメリカ空軍は、戦略爆撃機の優位性が薄れる中で、次世代の戦略爆撃機を開発しなければならないサイクルを迎えようとしていた。

戦略爆撃機がその戦略的な意味を取り戻すことができるとしたら、いきおいその開発の方向性は地対空ミサイルの迎撃を許さない、超音速(マッハ3)、高々度を飛行できる爆撃機ということになる。B-52の後継の戦略爆撃機には厳しい要求が突きつけられた。

次世代の戦略爆撃機B-70の開発は1955年頃から、WS-110A(WSはWeapon System 兵器システムの略)の一環として進められた。WS-110Aには当初、戦略爆撃機B-70の開発だけでなく、同行し護衛の任に当たる戦闘機F-108の開発も含まれていた。
本務に当たる戦略爆撃機とその護衛用の戦闘機を常に一単位として揃えると言う空軍の鉄則をしっかり踏まえていた点が興味深い。戦闘機の開発も含めるとそれだけプロジェクトが大掛かりのものとなり、予算がかさむことになるが、かといって予算を節約するために爆撃機だけを開発、製造したとしても、護衛戦闘機なしで爆撃機だけを敵地に送り込むことはできない。戦略爆撃機B-70は護衛戦闘機F-108と一緒になって初めて運用できる兵器であり、もしF-108がなく運用上の制約ができるならば、それはもう戦略上の優位性を保つことができず、したがって「戦略」爆撃機であるB-70の存在理由そのものが失われることになる。戦略爆撃の現実的な制約がここに表われている。
実際ソ連では、アメリカのB-70の開発計画を知り、迎撃のためにMig-25戦闘機を急遽開発、配備したわけで、ますますB-70を核戦略の一環として運用するためには護衛戦闘機F-108の開発が不可欠、一体のものだったことがわかる。


次世代戦略爆撃機構想WS-110Aは、そもそも戦略爆撃の意義が問われていた上に、多額の開発費(そして、製造費、運用コストもかなりの額になるであろうことは容易に想像が付く)を要することから、1961年の末までには途中で挫折してしまうことになる。
まず、予定されていた護衛戦闘機F-108の開発は完全にストップしてしまう。
そうなるといくらB-70の開発を続けても戦略爆撃機としての意味はすでに失われてしまっているのだが、すでにプロジェクトとして動き出している以上、とにかく性能確認のための試作機2機(XB-70)と兵装を施して運用上の試験を行なう試作機1機(YB-70)だけは製造されることとなった。

試作機XB-70A(試作1号機)は1964年9月21日に初飛行に成功し、翌1965年10月14日には速度マッハ3での飛行を成し遂げた。XB-70B(試作2号機)も1965年7月17日に初飛行に成功している。純粋に技術上は、マッハ3の超長距離爆撃機を作ることが可能であることが証明されたのである。
そして、第3号機の製造を待っていたのだが、1966年6月18日に他の飛行機と編隊飛行を行なっていた試作2号機が空中で衝突事故を起こして大破・墜落してしまうに及んで、試作3号機の製造は中止されてしまう。
試作1号機が、ただ一つ現存するヴァルキリーとして残されたのである。
ここまでに総額17億ドル(1971年のニクソン・ショック以前の1ドル=360円の固定相場で換算して6120億円)の予算がつぎ込まれたという。

ヴァルキリーは、戦略爆撃機がその役割を終えるときに花開いた徒花なのである。

WS-110A計画で構想されていた戦略爆撃機B-70と護衛戦闘機F-108用に開発されたGEのYJ-93ジェットエンジン。結局F-108は製造されなかったため、B-70の試作機であるXB-70、2機でのみ用いられた。
XB-70にはこのジェットエンジンが6発装備され、速度マッハ3での飛行の原動力となった。

ヴァルキリーの特徴のひとつが、翼の先の部分が下方に折れ曲がる可変翼である。これは音速を突破したときにできる衝撃波を機体の下に囲ってやり、コンプレッション・リフトと呼ばれる機体浮揚効果を発生させるための工夫である。


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