探検!アメリカの道路>>カリフォルニア見聞録

マンザナール強制収容所跡

強制収容所の敷地境界に立てられていた立て札。「戦時轉(転)住所」とはアメリカ政府の呼称"Relocation Center"を日本語に訳したものである。【写真=東カリフォルニア博物館】

1941年の日米開戦当時、アメリカ国内には11万3千人の日系人が住んでいた。そのうち3分の2はアメリカで生まれ、生まれながらにしてアメリカ人(国籍)である2世、3世だった。1942年2月19日ルーズベルト大統領は大統領令No.9066を発令した。これは、陸軍に対して特定地域から日本人、日系人を強制的に排除する権限を与えるものであった。表向きの理由は、真珠湾攻撃に衝撃を受けた軍部が日系人が手引きをして第2の奇襲があることを恐れたとされているが、同じ敵性国のドイツ系やイタリア系移民にはこのような隔離政策は行なわれず、日系移民だけをターゲットにしたこの政策は人種的偏見をその背景としていた。いずれにせよ、この大統領令によって、第二次世界大戦中アメリカの日系人はその国籍を問わず強制収容所へ送られた。
同様の日本人、日系人隔離政策は東海岸でも実施されたが、東海岸の場合は商社銀行の駐在員や外交官、留学生などの一時滞在の日本人がほとんどで、交換船によって日本に送還されるまでの一時的な隔離だった。ニューヨーク市のマンハッタン沖に浮かぶかつて移民受け入れ審査に使われたエリス島が収容所として使われ、後にヴァージニア州の保養地へと移された(このあたりの事情は柳田邦男の『マリコ』に詳しい)。いわば、敵国民としての扱いであった。
西海岸の場合は全く事情が異なる。アメリカに帰化した移民やアメリカで生まれ生まれながらにアメリカ国籍を持つ2世3世が中心で、彼らは同じアメリカ人でありながら強制収容の迫害を受けた。彼らにはアメリカ以外に帰る場所はなく、戦争中を通じた恒久的な強制収容所となった。
西海岸の諸州に10ヶ所設けられた強制収容所の内、マンザナールにあった強制収容所にはロサンゼルスに住んでいた人々を中心に、最も多いときで1万人の日本人が収容されていた。1942年3月21日にこの地の日本人を集める一時的な収容所(Temporary Detention Camp, アメリカ政府の呼称はAssembly Center)として開設され、6月7日からは恒久的な収容所(Permanent Detention Camp, 同Relocation Center)に切り替えられ、以後戦争期間を通して本格的な強制収容所として機能した。戦後の1945年11月21日に閉鎖された。
戦後の日系人の名誉回復運動の成果として1979年にNational Register of Historic Placesに指定され、その後1992年にNational Historic Siteになっている。アメリカ史を伝える史跡として保存されている。

マンザナールへの道

マンザナールはロサンゼルスから220マイル(約350キロメートル=東京−名古屋に相当)北のオーウェンズ・ヴァレー(Owens Valley)と呼ばれる荒野にある。ロサンゼルスからは車でフリーウェイを飛ばして約3時間半かかった。ロサンゼルスを出た後は、CA-14でモハベ砂漠(荒野)をひたすら北上し、途中モハヴェの町でテハチャピ峠を越えてセントラル・ヴァレーへ向かうCA-58を分岐させ、さらに荒野を進み、US-395へ合流して今度はオーウェンズ・ヴァレーの荒涼とした土地をひたすら進む。何もないところを燃料計を気にしながらひたすら走るドライブだった。
オーウェン・ヴァレーはシエラネバダ山脈の後ろ側にあたり、太平洋から吹き付ける風が山脈を越えて、乾燥した空っ風となって吹き下ろす。この風が草木を枯らし砂埃を巻き上げる。東側のインヨー山脈を越えると、そこはもう灼熱のデス・バレーという、砂漠の入り口のような土地である。
私が訪れたときは3月の末で、ちょうど寒冷前線が接近していて、ひときわ冷たい風が吹いていた。山脈を越えた雲が風に流されて谷に吹き降りてきていた。いかに風の強い土地であるかわかるだろう。
乾燥した風が吹き付けて水分を飛ばしてしまうので、湖も干上がってしまう。オーウェンズ湖では吹き出た塩が風に巻き上げられて白い煙幕を作っていた。この飛散するミネラル分が大気汚染を引き起こしていて、環境対策が取られているくらいである。
こうした不毛の荒野に日本人強制収容所が作られたのである。

東カリフォルニア博物館の展示

US-395を北上して来ると先にマンザナールに着くのだが、今のところ現地には詳しい解説や展示がないので、いったん通り過ぎて5マイルほど北にあるインデペンデンス(Indepedence)にある東カリフォルニア博物館を訪れてみる。
ここの博物館はオーウェンズ・ヴァレーの歴史を広く扱っているが、展示の半分以上がマンザナール強制収容所関連のもので占められている。マンザナールに関してまとまった資料のある数少ない博物館で、私が訪れたときも日系の子供達の団体が社会見学に来ていた。

東カリフォルニア博物館の展示で興味深かったのは、オーウェン・ヴァレーの林檎の宣伝チラシがあったことである【写真】。
事前の下調べでマンザナールとはスペイン語で「林檎園」を意味するとは聞いていたが、単なる地名だと思っていて、現地を訪れても林檎など採れそうにない不毛な土地という印象を受けた。それが、実際に林檎を作っていた実態があったのである。入植したヨーロッパ系移民が林檎栽培を始め、1910年から1930年代には林檎や梨の生産地として栄えたという。1920年から1925年には、カリフォルニアで生産される果物の内30%をオーウェンズ・ヴァレーが産出していたというから、その生産高は相当なものである。
日本の林檎の産地は青森県や長野県だが、林檎が採れると言うことは寒冷な土地柄であることを示している。
これは興味深い発見だった。

マンザナールが最後に果実を出荷したのが1933年で、1935年までには町が放棄されている。当時、ロサンゼルス市の市勢が拡大して水の需要が伸び、オーウェンズ・ヴァレーから"Los Angeles Aquaduct"と呼ばれる水路を通して水を確保しようとしていたところだった。モハヴェ沙漠の荒野の中を延々350kmも延びる大水道である。ところがロサンゼルス市が水を全て持って行ってしまうためにオーウェンズ・ヴァレーで果樹園用の水が不足して、怒った農民たちが水路の施設をダイナマイトで破壊するという出来事も生じた。そこでロサンゼルス市は土地を買取り、水利権を獲得しようと企てた。最初は団結して対抗した農民たちだったが、この地域の経済を支えている銀行家(同時に政治力も持っていた)が買収されて他の土地に移転してしまってからは櫛の歯が欠けるように抵抗はしぼんでしまった。農民たちは土地を売り払いマンザナールは廃墟となってしまった。
よく考えると、州の30%もの生産量を誇った土地を荒れ地にしておきながら、ロサンゼルスを潤すということはおかしなことである。日本で例えると、東京で使う水を確保するために、名古屋や仙台を荒れ地にしてまでも、そこから350kmの水路を引っ張っていることになる。そのすごさがおわかりいただけるだろうか。

そして、ロサンゼルス市が買い占めてただ水を確保するためだけに遊ばせているまとまった土地があったということが、この地に強制収容所が建設された理由のひとつになった(1997年にロサンゼルス市から、National Historic Siteを管理するNational Park Service (NPS)に土地が移管された)。

風は強く冷たいのだが、空は晴れ上がって遮るものがないので日差しが強い。博物館を見て車に戻ると車内は熱く熱せられていた。荒野の真ん中に立てられた木の板一枚のバラック小屋も、昼間は熱せられて熱く、夜はその分だけ冷え込みすきま風が吹き込む過酷な環境だっただろうと思う。
【写真=再現されたバラック小屋の内部と、東カリフォルニア博物館】

マンザナール強制収容所跡


インデペンデンスの町から、今来たUS-395を南へ5マイルほど戻る。
マンザナール強制収容所跡の史跡を示す茶色の案内に従ってハイウェイのUS-395をはずれると、ちょっとした小屋があって「正門」らしい雰囲気を残している。手前(外側)の小屋が軍の見張り小屋(The Sentry Post)で、奥(内側)に見える小屋が域内警察の見張り小屋(The Internal Security Police Post)である。両方とも1942年のマンザナール強制収容所の開設時に、日系人石工のカド・リュウゾウ氏によって建てられた。
今は使われていない。
この小屋の脇に小さな箱が備え付けられていて、そこに敷地内の案内パンフレット(Auto Tour Guide)が入っている。基本的にはこのパンフレットを見ながら自分で車を運転して敷地内を見て回ることになる。時折、ガイドツアーも催されているようである。

シエラネヴァダ山脈が美しく聳えている。
正面に聳えている日本の槍ヶ岳を彷彿とさせる鋭利な峰は、ウイリアムソン山である。戦時中の強制収容所を移した写真にもよく写し込まれていて、マンザナールのシンボル的な存在になっている。写真家のアンセル・アダムズも強制収容所とは違う場所からだが「マンザナールから見たウイリアムソン山」という有名な写真を撮っている(同時に彼は強制収容所内の写真撮影もしている)。
シエラ・ネヴァダ山脈にはアメリカ本土(アラスカを除く)最高峰のホイットニー山があるが、ウイリアムソン山の左手に山嶺に埋没するような形でかろうじて山頂をとらえることが出来る。
[マンザナールから見た山並みについて]

強制収容所のほぼ唯一の現存建物と言っていい公会堂。
墓地に立つ慰霊塔。裏には「1943年8月 萬砂那日本人建立(原文縦書き)」と刻まれている。
Baby Jerry Ogata 緒方敏郎の墓。縁者の人が立てたのか、星条旗が供えられていた。"Due Process"掲載の1969年当時の写真では特に国籍を強調するものは飾られていないので、2001年の9月11日以降のアメリカの愛国心高揚を受けてのものかもしれない。

マンザナール強制収容所跡を紹介する写真として、正門の見張り小屋と並んでよく見かけるのがこの慰霊塔である。この慰霊塔が立っているところは当時の強制収容所の墓地に相当し、当然のことながら居住区や各種施設がある収容所の中心からは外れたところにある。敷地内を案内路に従って車を走らせると、ここまでたどり着くのに20〜30分はかかる。
マンザナール強制収容所に収容中に亡くなった人は135人にのぼったが、そのほとんどは元の住所(hometown)の墓所に埋葬され、この墓地に埋葬されたのは全部で15人とのことである。

日本人の強制収容の問題は、戦時中の敵国民である日本人を隔離して人権を侵害したということに留まらず、アメリカの市民権を獲得した日系移民1世やアメリカで生まれアメリカ国籍を持つ2世や3世をも強制収容したことにある。彼らにとっては自分たちの国の政府から、いわれなき人種差別を被ったのである。
墓に供えられた星条旗が、その無念さを物語っているように思える。
私のような日本国籍の日本人から見て「わが同胞」が戦時中にひどい仕打ちを受けたという単純なものではない。ある意味では「彼ら」アメリカ人同士の問題であり、しかし同時に、日系人の民族的なアイデンティティやアメリカのかかえる人種差別に民族としての日本人としてどうかかわっていくかという複雑な問題を投げかけている。
当時の日系人は、そうした国と民族との間の問題に直面せざるを得なかった。アメリカ人としての権利とアイデンティティを強制的に否定され、民族としての日本人として差別された日系人達は、ある者はアメリカに失望し日本へと帰り、ある者はアメリカへの忠誠を誓い自らヨーロッパ戦線に志願し、それぞれがふたつの祖国の間で選択を迫られた。そこには激しい葛藤があった。
だが、これは日本人的な考え方かもしれないが、鉄条網に囲まれたバラック小屋のなかでひたすら年月が過ぎるのを堪え忍んだ人も多かったのではないかと思う。怒り、憤り、そして自ら国を選択するという個人で出来ることとは別に、そういう問いにたどり着くより前に、運命に翻弄された自分の立場を受け入れるか否かという葛藤にまず直面したであろうし、そこで甘受するという結論を出した人もいたに違いないと思う。それは決して消極的な選択ではなく、強制収容所という極限の環境において日々をどう生きていくかという問題はそれ自体が重い意味を持っていたと思う。そして、一度答えを出してそれで終わりではなく、毎日同じ問いが繰り返されたことだろう。アメリカに忠誠を誓い軍に入隊した人も、このまま残る、残る、残るという答えを出し続けた後に、もしかしたらアメリカ人として生きるという回答を出したのかもしれない。日本へ戻るという選択をした人も同じことだろう。
ひとつの結論を出すまでに、あるいは出ないままに、その間に何枚人生のカードをめくったことだろう。

マンザナール強制収容所では、アメリカへの忠誠を誓うことを求めた質問28に対して86.5%の人がYESと答えたという記録が残っている。174人が兵役に志願し、これは強制収容所に収容された徴兵相当年齢の成年男子の2.5%に相当する。

第二次世界大戦が終わり日本人の強制収容が解除されると、強制収容所の木造のバラック小屋はオークションにかけられ民間に払い下げられ、持ち去られたという。そのため今は何も残っていない。所々に礎石らしい石が転がっているが、それも本当に礎石だったのかわからない。
写真は第13居住区で見つけた水道の配管。この荒野にかつて人間が生活していたことを物語る数少ない証人である。
一部アメリカ軍スタッフの居住区には、彼ら用には立派な家を建てたのであろうか、建物の跡が残っていることがある。


【参考】

[荒野のハイウェイCA-14][モハヴェからテハチャピ峠へ]

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