道路元標の楽しみ方
道路元標の一番の楽しみは、実際に町の中で道路元標を発見することである。目立つこともなく町中にぽつねんと立っている道路元標を見つけだすだけで、宝物探しのような愉しみがある。次第にカンが働くようになってくると、旧街道を歩いていて(あるいは車で走っていても)自然に「石」が目に入ってくるようになる。それがまさに道路元標だったりすると、愉しさも倍増する。
いくつかの限られた情報を元に道路元標を探り当てていくことは、オリエンテーリングというゲームに似たところがあるかもしれない。
けれども、道路元標探しの醍醐味は、道路元標のある場所を通じてその町の生い立ちや地理が見えてくることであると思っている。
道路元標は概ね大正9年の設置時点での市町村をもとに建てられたので、戦後の市町村大合併を経て今では字名としてしか残っていないような地名も多い。自ずから昔の市町村の地理を思い浮かべることになる。
また、道路元標はその市町村の道路の基点となるべく、町の中心地、道路が集まる場所、そして自ずから人の集まる場所に建てられた。そこには町の機能中心があり、同時にその町のシンボルとなるような建物がある。「道路元標」としか書かれていない石にすぎないが、その無味乾燥な標石を通じてなんとなくその土地柄がわかってくる(わかったような気分になる)から、不思議なことだ。道路元標が何も語ってくれない分だけ、自分の知識と想像力を駆使して町の様子を探るのはこれほど愉快なことはない。
道路元標探しは、単にうつむいて道路を見ていても見つからない。町並み全体を見渡してみて、あのあたりが盛り場だなとか、街道の辻を中心に発展した町だなとか、そういう視線があってこそカンが働くのである。そういう意味では、道路元標探しだけしているのでなく、ちゃんとその町の観光もしているということになろう。
山登りが趣味の人が三角点や水準点を見つけて愉しんでいるのと同じように、町歩きや旧道歩きを趣味とする人には道路元標探しをお勧めしたい。
以下、道路元標の建っている場所を分類してそれぞれの町の雰囲気を書いてみよう。
街道に面した場所、辻、丁字路
道路元標が道路の基点である以上、その市町村の中でもっとも往来の激しい場所に位置するのがふさわしいと言える。街道を中心に宿場が栄えた町ではその街道に面している一角が一等地であり、道路元標もそこに置かれた。また、国道や府県道という大正道路法による等級付けがなされると、例えば、国道と県道の丁字路や府県道同士の交点などが町の道路網の中心となり、おのずから道路元標の位置も決まった。
こうした街道筋や辻というのはかつてから往来の中心になっていて、江戸時代の高札場だった場所と重なることも多い。
橋のたもと
(原稿準備中)
街道の踏切(街道と鉄道の交わる場所)
(原稿準備中)
かつての市町村役場前
昔の邑の構造はわかりやすかった。家々が集まり、何軒かの店が並び、その中心には役場と駐在所があった。自然と道路元標も役場の前に建てられることが多かった。
市町村合併を経た今日では、旧市町村の役場跡は公民館や地区のコミュニティセンターなどの公共施設となっていることが多い。児童公園になっていることもある。また、農村では役場に代わって農協の支所が旧市町村ごとに置かれることも多く、農協の脇で道路元標が見つかる場合には昔の役場がそこにあったと疑っていい。こうしたパターンを覚えておくと、道路元標を探し出しやすい。
かつての村役場跡に建っている道路元標として、沖縄県読谷山村(ゆたんざむら:現読谷村)の例を紹介しておく。読谷村はちょうど国中(沖縄本島南部)と国頭(北部)とを結ぶ街道の要衝に位置していて、今日でも沖縄の背骨にあたる国道58号が貫いている。話は琉球王朝時代にまでさかのぼる。琉球王朝下の邑は間切と呼ばれ、各間切の行政を司ると同時に、街道の公事連絡のために番所(駅)が置かれた。読谷村の喜名にも番所がおかれ、喜名番所と呼ばれた。1853年日本に開国を迫るペリー艦隊は本土に先立ち琉球にも立ち寄ったが、その際に喜名番所が応対したという記録が残っている。この番所がそのまま、明治30年の沖縄県間切島吏員規定により間切役場となり、明治41年に市町村制になり読谷山村役場となった。制度は変わっても行政の中心は変わらなかったのである。喜名には郵便局や小学校もあり、昭和になってバスが通るようになると更ににぎわいを増した。だが、沖縄戦によって喜名の役所は焼失し、戦後の強制収容を経て村に戻った人々は役場を波平に移した。現在役場跡は喜名番所跡として公園になっている。その公園に、戦火をくぐり抜けた道路元標だけが今でも残されている。
寺社仏閣の門前
有名な寺社仏閣があってその門前町として栄えてきた市町村の場合、寺社仏閣が町の中心となり、道路元標もその門前に建てられることが多い。
仏都として知られる長野市の場合も、当然ながら善光寺の門前に道路元標が建てられた。今は復元されたコンクリートのものが建っているが、もともとの道路元標は「牛に引かれて善光寺参り」の故事に倣って牛の像の上に元標が載っているという凝りようだったという。一度写真でもいいから見てみたいものだ。今のコンクリート製の道路元標の脇にも小さなお地蔵さんが置かれていたりして、信仰の息づかいが伝わってくる。お地蔵さんと一緒に拝まれる道路元標というのもここぐらいのものだろう。
兵庫県赤穂市の赤穂町道路元標の場合、赤穂藩主の菩提寺である花岳寺の門前に建てられていた(赤穂町道路元標自体は赤穂市民俗資料館に移設・保存され、現在は加里屋道路元標跡碑が同場所に建てられている)。赤穂は門前町と言うよりは城下町であるが、藩主の菩提寺前と言うところが赤穂義士を生んだ土地柄を感じさせる。
共同浴場の前
有名な温泉地にはその土地の人に守られてきた共同浴場がある。自然と人が集まると同時に、その温泉場第一の湯として大切にされ、楼閣作りの立派な建物がその町のシンボル的な存在になっていることも多い。道路元標がこうした共同浴場の前に建てられることもある。
石川県の温泉場では町第一の共同浴場のことを「総湯」と呼ぶが、総湯の前に道路元標が建てられている。「総湯」という呼び方からして町の中心としての温泉の存在を物語っていて、なるほど、道路元標の設置場所にふさわしい。
竜宮城のような楼閣で知られる佐賀県武雄温泉の場合も、その楼閣前に武雄町道路元標が置かれている。これも、共同浴場が町の中心になり、そこに町のシンボルとなるような建物が建てられ、道路元標がそれに添えられたという典型例である。
豪商、造り酒屋、名士邸宅の前(原稿準備中)
移転先
博物館(郷土資料館)、役場役所、公民館、小学校の校庭
茨城県告示第117号(抜粋)
道路元標の設置場所として町村役場が多いが、筑波神社神橋前、伊勢屋旅館前、駐在所前といった場所も見られる。茨城県の道路元標位置を定める告示にはこうした具体的な所在地が記してあり、他には郡役場前、国道上、県道T字路、尋常小学校前、郵便局前、銀行前、橋袖、旅団司令部前などがある。
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