見えてきた都−紫香楽宮

史跡紫香楽宮跡

甲賀寺跡

紫香楽宮の全貌把握が困難だったのは、朝堂跡と思われる建物跡が今回ようやく発見されたように、発掘による成果がこれまでなかったこともあるが、もうひとつには史跡として紫香楽宮と指定されている今の遺跡が、後の調査で甲賀寺−国分寺の跡であったということが推定され、考古学者による全体像の推定作業がいわばふりだしに戻ったままだったことにも理由があるように思われる。
史跡紫香楽宮は、国道307号から少し奥まった、集落の裏手の小高い丘の上にある。こんもりと森が茂っていて遠くからでもそれらしくわかる。数年前に紫香楽高原鉄道に乗って紫香楽宮址駅で降りてこの史跡を訪ねたことがあったが、その時はこの小高い丘が宮跡だとばかり信じていたので、遠くから森を眺めては木の替わりに高く甍が聳えているのを想像したものである。
ちなみに、紫香楽高原鉄道の駅には、雲居、勅旨といった雅な駅名が並んでいて、それも紫香楽宮跡への想像をかき立てた。天平時代に想いを馳せながら、駅からこの丘までてくてく歩いたものである。雪の日の朝で足下はびしゃびしゃだったが、真っ白に覆われた敷地の中に礎石が顔を出していて全体の配置をはっきりと見渡すことが出来た。今回の新町遺跡の発掘によってそうした青春のひとコマが見当はずれだったことがわかったわけで、本当の遺跡を見てこの「落とし前」を付ける必要があったというのが、今回の信楽行きの動機であったりもする。
「落とし前」というと、鉄道旅行紀行家の宮脇俊三氏は新町遺跡の発掘の報をどのような想いで聞いただろうか。彼は「日本通史の旅」と称して教科書に出てくる順序にこだわって日本全国を旅していて、風土や現在の社会事情の中で遺跡を眺めている点にとても好感が持てる文章を書いている。彼も紫香楽宮をしのぶために史跡紫香楽宮跡を訪れているのだが、そこで甲賀寺であるとの推定に疑問を呈して「この寺跡のほかには宮跡はなく、それにふさわしい平地もない」(『古代史紀行』)とまで言い切っている。これは結果としては間違いになったのだが、以前頻繁に鉄道で旅行していた私自身の経験から言うと、この感覚はよくわかる。駅から歩いていって手前の丘が宮跡だと言われれば、そこが宮跡だと思う。その山向こうにまとまった平地があるとは思いもしない。もしはじめからひと山越えたところの平地が宮跡だと言われれば、山を越えるのがしんどいなと思いながらも汗をかきかき山向こうの平野まで行く。目的地に着いて満足して、また駅まで引き返してくる。良くも悪くも駅を基点として頭の中の地図が描かれるのである。そして行動範囲も時間も限られているので、下調べに頼るところが大きい。もし彼が、新町遺跡のある奥まった小盆地を眺めることがあったとしたら、たとえ遺跡が見つかっていなくてもまた別のイメージを思い描いていたことだろう。それはさておき。

この丘陵地帯に何か建物の礎石が散乱していると言うことは江戸時代から知られていたらしい。宮跡を類推させる内裏野(内裡野)とか寺野と呼ばれる地名が残っていて、紫香楽の宮とのつながりも指摘されてきた。共同体に残る共有された記憶というのは強靱なもので、丘一帯が由緒ある場所として代々伝え守られてきたのだ。
それが本格的に紫香楽宮として文化財保護の対象になるのは大正時代に入ってからのことで、地元の住民達が積極的に礎石探しをするなどして遺跡として見直しをすすめ、文部省に史跡指定を申請したという。文明開化というが、明治時代には悪弊旧習として江戸時代以前のものを排斥する政治的な傾向があった。ところが大正の時代になると、民芸運動など自分たちの土着の文化や郷土の史跡を見直そうという運動が起きてくる。以前訪れた長野県臼田町の龍岡城跡も昭和のはじめの頃に郷土の史跡として見直され住民による保存が行なわれ、国の史跡に指定されている。大正から昭和のはじめにかけて地元が中心になって整備して史跡指定を働きかけた例は、他にも多いと思う。


[▲(1)宮町遺跡][(2)史跡紫香楽宮跡][▼(3)地形図]

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