見えてきた都−紫香楽宮 地形図を読む

牧の集落上空200m(対地高度)から真北を撮影したという設定の地形復元図。甲賀寺跡(史跡紫香楽宮跡)と今回発掘された宮町遺跡とを結ぶ線が南北を向いていることがわかる。
地形再現にはカシミールを用いた。平野部と高原との境を標高280mに設定し、平野部は水田が広がっている風景を再現するために滑らかなテキスチャを、高原部は森を表わすために荒いテクスチャを用いた。史跡紫香楽宮跡と宮町遺跡の立地の違いがうまく描き分けられたと思う。

小高い丘にある史跡紫香楽宮跡。甲賀寺跡と推定されている。


平野部にある宮町遺跡。紫香楽宮の中枢部である朝堂跡と見られている。北に山を背負い南に開けた風水にかなった地形である。


宮(みや)と都(みやこ)

壬申の乱を経て、天皇を中心とした律令体制が整い、国家の統合が推し進められるようになると、朝廷の規模や性格も変わってくる。
それまでは天皇の代毎に宮が造営され、その個別の王宮の建物が政治の舞台であった。飛鳥時代とは飛鳥の地に日本の首府があった時代のことを指すが、飛鳥の丘陵部全体と言うよりも、時によって磐余宮だったり、上宮だったり、小墾宮だったり、板蓋宮だったりが、朝廷の営まれた場所であった。天武天皇の浄御原宮あたりまでは、宮を単位に歴史を追っていっても間違いではないだろう。
ところが持統8年に藤原京が完成すると、宮から都(みやこ)へと発展していく。これは、朝廷を頂点とした官僚組織ができあがり、朝廷の置かれた宮(内裏)と官吏を住まわせるための都市を一体として建設する必要が出来たからである。単に都市計画を唐に真似たというよりは、律令制の結果として官僚組織が、都という入れ物を必要としたのである。同時に、都というインフラストラクチャーがなければ、官僚組織を擁する律令制は、完成させることが出来なかっただろう。この意味で、律令制の成立と都の造営とは表裏一体を成している。そしてこれ以降の政治時代区分も、平城京、長岡京、平安京と、都を単位に推移していく。

聖武天皇は、天武系の血を引く皇嗣として、完成された律令制の上に乗っかった最初の天皇である。けれども、新しいインフラストラクチャーである都を基盤に政治を進めたという印象は薄い。むしろ聖武天皇を特徴づけているのは、その彷徨ぶりである。九州・大宰府で藤原広嗣が乱を起したそのまさにさなか、天平12年10月26日、聖武天皇は突如「朕は意(おも)うところあってしばらく関東へ行く。その時に非ずといえども、已むこと能わず。将軍らはこれを知って驚いてはならない」と征討の大将軍の大野東人に勅し、関を越えて伊賀、伊勢、美濃、近江へと行幸した。約1月半の間、東国に遊んだ後も、彼は奈良・平城京へは戻ろうとはせず、木津川北岸の甕原宮(みかのはらみや)に落ち着いた。
ここで思うのは、聖武天皇の行動が都ではなく宮単位であるということである。紫香楽宮もあくまでも宮であって、都ではなかった。都の住人である律令官僚や商人達はその大部分が奈良の平城京に留まったままなのである。そして、藤原広嗣の乱や聖武天皇の彷徨にもかかわらずに、壬申の乱のようなクーデターが起こらなかったのは、ルーチンな事務を淡々と進めることができるだけの官僚機構が既に立派に機能していたからと言えるのではないだろうか。

宮跡なのか、都の跡なのか、紫香楽宮の謎の解明はこれからである。


[▲(1)宮町遺跡][▲(2)史跡紫香楽宮跡][(3)地形図]

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