目次
・スチームタウン国定史跡
・・・ビッグボーイ4012
・・・グランド・トランク・ウエスタン6039
・旧ラカワナ駅駅舎
・黒炭博物館とラカワナ炭坑跡
・スクラントン溶鉱炉跡
スクラントンの歴史ペンシルヴァニア州北東部、アレゲニー台地をサスケハナ川が刻んだ緩やかな谷間に広がるスクラントンは、19世紀から20世紀前半にかけて産炭、鉄鋼業の町として栄えた。アメリカの鉱産資源の分布として「アパラチア山脈の石炭」というのを教科書で教えられたが、スクラントンはアパラチア山脈の代表的な産炭町であった。
1840年頃、Judge Jesse Fellは当時Slocum Hollowと呼ばれていたこの地に良質な無煙炭(炭素の純度が高いために火力が高く、そのことは取りも直さず不純物が少ないために文字通り煙が薄くて燃焼後の炭滓も少ないという利点をもった石炭)が産出することを発見した。もともとニュージャージー州で製鉄所に勤めていたスクラントン兄弟は、この無煙炭をあてにして1842年に溶鉱炉を建設し製鉄業を興した。スクラントンの炭坑と鉄鋼の町としての歴史はここに始まる。
かれらが大きく飛躍するのは、1846年にニューヨーク・エリー鉄道(エリー鉄道)から鉄道用のレールを受注したことによる。当時のアメリカは鉄道建設ブームに沸いていて各地で盛んに新しい路線が建設されていたが、レールは全てイギリスからの輸入に頼っていた。スクラントン兄弟はそこに目を付け、輸入レールの半値の1トンあたり46ドルを提示して売り込みをかけていた。そして、エリー鉄道から12000トンのT字型レールを受注すると共に、その生産体制を整えるために10万ドルの融資を得ることに成功した。この契約によって、スクラントン兄弟は「アメリカで最初のレール・メーカー」という名誉を得ると共に、繁栄のきっかけを掴むことになる。
産炭業やスクラントン兄弟の鉄鋼業の発展と同時に次第に人口が増加し、1856年に自治体boroughに昇格、1866年には市に昇格しスクラントン一族にちなんでスクラントン市となった。1850年の統計では人口7,143人だったのが、1880年には51,001人にまで増加し、人口は30年で7倍に膨れあがった。
スクラントンの繁栄でもうひとつ忘れてならないのが鉄道である。
1851年に、スクラントンとその北を走っているエリー鉄道の路線を結ぶ目的でthe Liggets Gap Railroadが設立された。この会社は実際に線路を敷くことなくラカワナ・ウエスタン鉄道と名前を変え、1853年にはスクラントンの東側で鉄道を建設しようとしていたthe Delaware & Cobbs Gap Railroadを吸収合併して、the Delaware, Lackawanna & Western Railroadとなった。これがいわゆるラカワナ鉄道である。鉄道の開通によって無煙炭や鉄鋼製品を大市場であるニューヨーク市へ輸送することが可能になった。鉄道の創生期には、スクラントンで生産される石炭を使った蒸気機関車が、スクラントンで生産された鉄のレールを運び、そのレールで鉄道網が更に拡大し、スクラントンの石炭と鉄鋼が更に遠くへと運ばれ、それにともなってスクラントンの経済も飛躍的に拡大した。また、スクラントンを中心にして東はニューヨーク市へ、北は五大湖沿岸まで鉄道網が拡大すると、鉄道の中継地点としての役割も加わった。産炭、鉄鋼業、鉄道という当時の花形産業を擁して、スクラントンは殷賑を極めた。
1890年代になると鉄道網ができあがり、ニューヨーク市と五大湖沿岸との間には、ハドソン川沿いのセントラル・ニューヨーク鉄道、ペンシルヴァニアからアレゲニー山脈を越えるペンシルヴァニア鉄道といくつもの鉄道路線が開通し、鉄道会社間での競争が起きた。ラカワナ鉄道の蒸気機関車は本拠地のスクラントンで産出される良質な無煙炭を使っていたため、普通の石炭を使う蒸気機関車より煤煙が少ないという利点があった。この利点を宣伝しようと、ラカワナ鉄道は純白のドレスの清楚な女性キャラクターを用いて「雪の妖精 Phoebe Snow」という独自のキャンペーンを展開した。スクラントンの無煙炭とラカワナ鉄道の発展が表裏一体だったことを示すエピソードのひとつである。
今にして思えば皮肉なことだが、産炭業が全盛だった頃のスクラントンはまた「電化都市 Electric City」とも呼ばれた。これは、1886年に全米で最初の路面電車が走ったことにちなむものである。
文化風俗も華やかになり、Houdiniという当世一と呼ばれた奇術師も輩出した。当時の芸人の間にはスクラントンで成功すれば一流という評価があり、これは、それだけ町が栄えていたと言うこともさることながら、炭坑夫の気質として命がけで稼いだ貴重な金をつまらないものには出せないと言う経済観念があった反面、常に危険にさらされ「明日は我が身」と思えばこそ今日の娯楽を求め真に一流のものには出し惜しみしないという、芸の善し悪しを見抜く厳しい目があったからである。
表の華やかな繁栄とは裏腹に、それを影で支えている炭鉱労働者の労働条件は過酷で、大規模なストライキも頻発した。とりわけ1902年のストライキは地域の炭鉱労働者の80%が参加する大規模なもので、スクラントンの地域経済を混乱に陥れ、当時のセオドア・ルーズベルト大統領の仲裁によってようやく解決をみた。
こうした労働争議を嫌って、翌1903年、スクラントン市の祖であるスクラントン一族は生産設備をニューヨーク州バッファロー近くのラカワナに移転させてしまった(この地名はラカワナから移転してきたことにちなむ)。
徐々に衰退の影が忍び寄っていた。1902年の大ストライキの後も産炭業はスクラントンの基幹産業であったが、無煙炭の生産は1917年にピークを迎えると以後は減少に転じた。やがて産業エネルギー構造が完全に変わってしまうと、産炭業はすっかり衰えてしまった。産炭と鉄鋼という2大基礎産業が衰退して運ぶもののなくなった鉄道は、それ自体が蒸気機関車からディーゼル機関車へと構造転換し、無煙炭の需要もなくなった。1949年には、かつて無煙炭のクリーンさの象徴だったPhoebe Snowという名称をディーゼル機関車が牽引する列車が名乗るようになり(ディーゼル機関車への切り替えこそがまさに「無煙化」であった)、蒸気機関車は鉄路の主役の座を降りた。同じ年、町の中心にあった蒸気機関車のための大規模なヤードも閉鎖された。
いまスクラントンは地域に残るかつての遺産を活用して、町の活性化に取り組んでいる。他の多くの鉱工業都市が取り組んでいるのと同じ政策である。
うち捨てられていたヤードと扇形庫は、蒸気機関車時代(それは同時にアメリカにおける鉄道の黄金時代)に一大拠点だったことを誇るスチームタウン国定史跡 Steamtown National Historic Siteとして、蒸気機関車を保存、展示していく博物館に生まれ変わった。同時に、スチームタウン・モール The Mall at Steamtownが隣接して設けられ、両者が歩道橋で結ばれるなど、商業活性化の中核施設になっている。また、かつての栄華を誇るラカワナ駅 Lackawannaの駅舎はホテルへと転用されて保存されている。炭坑跡のなかには、博物館や地底探検ツアーとして観光客を迎えているものもある。
写真解説 中央=スチームタウン国定史跡の展示の目玉のひとつ、ビッグボーイ4012の動輪(前);左上=マクデイド公園 McDade Parkに立つ炭鉱労働者の像;左下=旧ラカワナ駅駅舎のホール;右下=スチームタウン国定史跡のターンテーブル
観光情報スクラントンへの行き方
ニューヨークから車で2時間半。日帰りドライブにちょうどよい距離である。
マンハッタンからはジョージ・ワシントン橋を渡りI-80をそのまま西に向かい、ペンシルヴァニア州に入りI-380を北上する。または、タッパンジー橋、ニューヨーク・スルーウェイを経由してI-84に入り、そのまま西に向かう。
いずれの場合もダウンタウンへのアプローチはI-81 Southを使うことになる。I-81 Southに入ったあたりからスチームタウン国定公園の茶色の案内看板が出てくるので、それに従えば迷うことはないだろう。Exit 53で出ると、フリーウェイがダウンタウンまで伸びている。ダウンタウンに入りフリーウェイの終点の交差点で左折する。この交差点の角に旧ラカワナ駅の駅舎が建っているので見落とさないようにしたい。
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